Monday, July 10, 2006

RocketQueen HISTORY(TRUE) 2001 / "Beauty's On The Street"













年が明け、リハで新曲を練りながらLIVE活動を開始、SETにも"DEADMAN SHOW" "誰がために鐘は鳴る" "DREAMS"も加わり、益々バラエティーに富んだ音楽性を展開を見せていく。
他にも、Diechanは"誰がために鐘は鳴る"の原曲と共に"WAR ENSEMBLE~駆り立てるのはただ野心と欲望、そして横たわるのは犬と豚~"という、組曲的楽曲もアウトテイクとして提供している。重くへヴィな前半から突っ走った流れの後半で組み合わさったような曲だったと自分は記憶しているが。Tomokiもこの時期、自分から「聖飢魔Ⅱ」をかなり聴かせて洗脳しており"ファラオのように"のような16の少しダンサンブルな横ノリの曲や、壮大なROCKバラード調の"ARCADIA"を参考にした大きなノリのバラード曲もあったと記憶している。また、3拍子の曲を思いついたとのコトで、"BLACK MIRROR"という曲も提供していた。そして"MESSIAH"作曲者であるJinが「良かったら使ってくれ」と、本人が昔書いてあたためていた曲"LUCFER'S RISING"を提供してくれた。
BANDとして実際演奏したのは先の3曲だが、非常にクリエイティヴに楽曲制作していた時期でもあったのである。

そういえば年始のこの時期、Diechan,Tomoki,Mune,Tsuyoshi共に成人式を迎える。
ホント若かったんだよな、この子達(笑)

池袋Adamにマンスリーで出演し、自分のSOLOでも活動してきた北浦和Ayersにも出演している。
そして6月には初の音源となる「MESSIAH」を南浦和にあるカラレックというスタジオで録音・制作。
ちなみにここは自分の縁の深いスタッフがおり、気兼ねのないリラックスした録音であった。
自分以外の彼らはこうしたレコーディング形式は初であり、手始めとも呼ぶべき最初の録音でもあった。

実際にその後の7.15の池袋Admにおいて、たった1回しか会場販売はしていないため、この音源をカセットテープで持ってる人がいたなら、それは非常にレア中のレアである。
幻のデモテープと呼ばれるその恐るべき内容は録音されたMESSIAHはA面に入っているのだが、B面はDiechanの趣味と悪戯(笑)により関係のない音源が収録されているのである。何を入れていたか迄は思い出せないが、当時から遊び心満載での活動であったといえる。


だが、このレコーディングをきっかけにGuitarのMuneが脱退。
その原因は、それぞれが自らのテクニックを磨き上げ、BANDを成長させていく中で、Muneの音楽に対する自意識の問題が表面化してしまった。
自分の個人的見解と推測でしかないが、誘われてこのBANDへ参加したことも「やらされている感」が見えていた。
決してアクティビティまでは求めてはいないが、BANDである以上は意識をもって参加することは義務であると思う。そういった気持ちの揺らぎはBANDそのもののモチベーションをも下げてしまう。
難しい判断ではあったが、彼らも(Diechan,Tomoki)友人との情を捨ててBANDを高みへと進めようとする決意も見られ判断したとされる。

またシビアなことだが、自分もこのBANDの結成当時よりリハーサルにおいて喉を潰してしまい、抑制の効かない自身の声に嫌気がさし脱退しようとも考えていたこともある。
だが、奇跡的にLIVEごとに回復していき踏み留まったことで今があるのだが。
どちらにしても、あの時はあの時なりの苦悩と挫折もそれぞれにあったのだ。
音楽の質を高めていくために犠牲を払うのも事実であったといえるだろう。
BANDとは決して1人の所有物ではない。誰1人が欠けても本当はダメなのだ。

そして、新たにkazuya(Vo)/Tomoki(G)/Tsuyoshi(B)/Diechan(Dr)の4人でRocketQueenを再生させた。

この時代を知る人こそ今は少ないとは思うが、この時期こそRocketQueenは正真正銘ROCK BANDであり、LIVE BANDであったと、自分のみならずメンバー全員が公言している。

Maxi-single:「FIRST DEMO 2001」の完成。
その内容は結成当初から演奏され続けた手馴れたマテリアルの"誰がために鐘は鳴る" "HIGHWAY GANG" "BLACK HUNTER"の3曲である。各自がそれぞれのパートに責任を担い録音された音源は当時のベストテイクであったと思う。BANDへの意識の向上、それが前音源の録音とはまるで違うように思えた。

以下はデザインについてのやりとり。

D氏:「そういえばこれのジャケってどうするよ?」
K氏:「う~ん何でもいいけどね...」
D氏:「何かさ、野獣がグゥァァァァァァって感じの強そうなヤツ(笑)がいいね。」
K氏:「(大笑)んじゃ、動物図鑑とかから引っ張ってくっか。メンバー写真とかもいれる?」
D氏:「写真ねェ...そこのゲーセンでプリクラ撮って貼っつければいいんじゃね?」

瞬殺で決めたこの工程で出来上がったのが実際のジャケデザインである。
「勢い」だけで突っ走る。俺達の人生、スピードだけ。そんなノリだった。
また、そんな音源を引っさげてのシリーズLIVEが最高の熱を孕んでいた。
約3ヶ月の中で10数本という、まぁ他のBANDなら全然少ない本数だがウチらにしたらとんでもない本数だった。そしてこの時期に自分は、8年程正社員で働いた会社から会社縮小のため事実上「リストラ」されフリーターに。他のメンバーもまだ若く皆フリーターだし資金面でとにかく干上がってた。
余談だが、この時期にバイトするため自分は別に拘ってもいなかったが、長い髪を切り落とした。別に大した意味もなく伸ばしていたのだが、いい加減飽きたってのも一つかな。自分的に心機一転のつもりでもあったし、かといって深い意味は全くない。


この時期の活動期間を経てメンバー同士がすごく繋がっっていったし、何よりも心から楽しかった。
BANDってやはり人との繋がりが強い程に音楽にも強く感情を反映できる気がする。
「BAND」ってやはりいいなって。単純に改めてそう感じていた。

2001年暮れよりの怒涛の活動記録。その話を紐解こう。
To氏:「音源せっかく作ったんだし、年末にかけてLIVEちょっとまとまった本数やろうよ。」
D氏:「そうだな~ガンガン入れちゃおうぜ」
K氏:「んじゃ片っ端からライブハウスに音源送りつけてブッキングしてもらおうか。」

かくして、ジャンジャンとスケジュールを入れていったのである。それは11.14北浦和Ayersより爆裂スタートするが、LIVE本編は地元友人連中から当日の他のBANDの客まで巻き込みながら会場をこれでもかと揺らしてきた。平日のブッキングでのLIVEは今まで無く、逆に自分達は新鮮に感じながらのLIVEでもあった。音楽に生きてるって感覚がまた誇らしくもあり、4人が皆ROCKERとしてトガッっていた時期でもあろう。

その公演から数日後の11.19に六本木Y2Kという当時それなりにデカめの名の知れたハコに出演。メンバーもその知名度から期待に胸を膨らませて望むが、来客は椅子にキチンと着席。「ふ~ん」とでも言いたそうなマッタリとした寒々しい空気の中、唾を吐き捨てるが如く力の限り飛ばした。会場の設備の割に大した技術も無かったな、このハコは。

12.07神楽坂DEMENSIONはイベント絡みの出演であったが、遅刻常習犯:Tomokiが入りの集合時間よりも早く来るという「事件」が起きる。しかし何と逆にTsuyoshiが大寝坊をかます(笑)後で散々皆からいたぶられたのは言うまでもない。「死ねッ!」Diechanが凄みをきかせてたのをよく憶えている。スティックをよくブン投げてたな。伝統あるハコなんだが、ホント汚い・暗い・狭いの3拍子揃ったようなトコ。LIVE自体は来客が自分の目当てのBANDに転換するとあっという間にステージ前から遠ざかっていくという寒々しいLIVEだったが、俺達にはそんなもの関係なく突っ走るのみであった。終了後、Diechanにイベンターがあの伝説の名言「キミの衣装は筋肉ゥだねェ!!」と語る。容赦のないパフォーマンスは被写体としても凄まじかった。メンバー誰一人としてまともにピントが合わない写真という写真。笑えたが、全員心霊写真並みの写真映りである。

12.23浦和NARCISSではクリスマス直前の町並みを尻目に週末のブッキングで、なんか社会人のヌルイBANDとかの共演だった気がする。逆にそのBANDの来客に「キミたちィ、ROCKだね~ヒック(酔)」等と以外にウケてたのがまたよく分からないのだが、それなりに盛り上がって意気揚々と事務所に清算しに行くと、ブッキングマネージャーに
「ウチはヴィジュゥアァァルの店だしねェ~キミらなんか出ても客付くのはムゥズかすィ~じゃなァい?へへン(鼻で笑う)」みたいな。もちろん一同唖然。自分は内心、この黒く塗られた建物自体をホントに炭にでもしてやろうか?なんて思ってたりもした。
一同:「こんなアフォなハコに誰がワザワザ出てやるかよ。ケッ」
本番でDiechanが力の限りブッ叩いてシンバルが裂けたり、挙句にはこの当時、彼の愛用していた「鉄骨(鉄芯)」の入ったスティックがこの世のものではない形にへし折れるという伝説的ウルテクを見せたことで少しばかり気も晴れ、サヨウナラ。

2001年の最後を飾るのは12.30原宿LOSANGELSでの「1周年記念」である。この日もイベント絡みの出演、トップでもあったが、ノッケから「RocketQueen,1周年~Yeahhhhhhhhh!」と全員で叫び、ハイテンションで少ない持ち時間を山ほどの曲数で(笑)飛ばして飛ばしまくって駆け抜けた。
客?「ノリ遅れたヤツは死ねッ!」これも伝説の名言である。
確か来客にDiechanの関西時代の友人が駆けつけてくれていたのをよく憶えている。


こんなLIVEばかりのドサクサの最中、リハで新曲製作もタイトなスケジュールの中で行われていた。
DiechanがHIGHWAY GANGの続編のようなROCK'N'ROLLな曲、"CHICKEN RACE"を作り上げ、
Tsuyoshiのスラッピングを取り入れたイントロを生かしてジャムって完成させた"SHALL WE DANCE"
が出来た。そしてTomokiが"VINUS CITY" "HAPPY SONG"を生み出す。
先の2曲はまだROCK色はあったが、Tomokiの作曲に変化・転機が訪れてくる。
彼のルーツからCrassicやJazz、Acosticなどの面を色濃く出した楽曲が生まれ、HARDなROCK SOUNDから離れてきてしまった。
実際にLIVEではこの中から"CHICKEN RACE" "VENUS CITY"がSETに加えられ日の目を見たのだが、
明らかにBAND内で違和感が芽生えてしまい、ROCK BANDとしての方向性を見失うという所まできてしまっていたのだ。

楽曲が悪いのではない。
むしろ曲はいい曲ではあるが、ROCK BAND「RocketQueen」としてどうなのか、
それが「全て」であり、それが方向性を獲得していく手段なのだ。

そのため、それらの原因などからGuitar:Tomokiの脱退へと繋がっていくこととなっていくこととなる。

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