RocketQueen HISTORY(TRUE) 2002 / "So Sweet,So Lonely"

Tomokiの脱退が決定され、彼に脱退の申し入れをこちらより告げる。
結成以来の「親友」Diechanにとっても心苦しい決断でもあったが、自分達が進むべき音楽性をあくまで貫き通そうとするために決断をしなければならなかった。自分はあくまで彼の将来性を買っていたし、このままこのRocketQueenというBANDで磨り減っていく才能が見ていても勿体無いとも感じていた。Tomokiの音楽センスから、もっと広く音楽性を展開させることで、自由な豊かな表現が可能であると信じていたためである。勘違いして欲しくないのが、彼とのBANDの成長を切り捨てたのでは断じてない。
結成以来、広がり続けるTomokiのイマジネーションをもっと「然るべき表現の場所」へと解き放つべきだと、この時自分もDiechanも同じ意見であったし、結果Tomokiもそれを望んだのだ。
そして、現時点でのブッキング済みの残りのスケジュールはTomoki自身が「最後までオレに弾かせて欲しい」と申し入れがあり、自分達もそこでの「決着」には文句も無かった。
2001年の暮れよりから水面下で、自分とDaichanが率先して次期メンバーとなるGuitaristを探し求めていった。その中でTakumiがまず決定し、彼との話し合いから再びツインギターの方向性に向かっていく。
彼自身もGuitarのリフで押すゴリゴリのMETAL BAND志向だったことや、自分達もよりへヴィな方向へとBANDが進むことは意見が合致していた。
2002年初頭に再び人選からRyoが選ばれて加入が決定する。
彼も大学BAND以来の初となるオリジナルBANDへの参加に意欲満々であったし、何よりも彼の人間性が非常に丁寧で礼儀正しい性格でもあった。またDiechan,Tsuyoshiとも同年代。うち解けるのも早かった。
ここからが新ラインナップの始まりでもある。
そしてまだ今もなおTomokiが在籍する中で、あまりに脱退後の繋ぎが順調に進んでいたことに非常に嬉しくもあったが、その反面で少し申し訳ない気持ちもあった。
リハもTomokiと合わせた後にTakumi,Ryoと連続して行いながら進めていった。
Takumiも新曲のマテリアルを依頼していたが、形としてはまだ上がってきておらずむしろ現存のマテリアルをその手に馴染ませるのに一杯であった時期であろう。
Ryoもまた作曲に関してはまだ自分の納得のいく自信がなく、いずれ自信を持てたら創作したいと考えていたようだ。
その中でKeyboardも入れようか?とDiechanが言い出し人選を進めた。
彼の中にGun'n'Rosesのラインナップがあったのは言うまでもない。
しかしKeyboardといっても当時まだ非常に人選が難しく、何故かピアニストが来たりとなかなか希少な数の中での人選に一度は暗礁に乗り上げ、断念せざるおえなかった。実際自分達もどんな人材に声をかけたらいいのかもハッキリ分かってもいなかったのである。
2002年最初のLIVEは1.06の秋葉原GOODMAN。TsuyoshiのBASS教室のツテでイベント出演が決定。
この会場は都内でも屈指のいい音環境で演奏が出来るというふれこみであった。実際高級な機材を使用できたり、会場側のスタッフの対応も良い。非常にやりやすく感じられた。
終了後にイベンターがBANDにコメントをくれたり、アドヴァイスをくれたが、駆け出し途中の自分達には大して響いていなかった気もする。ただこの時点で自分達の弱点も見えたし、理解は出来た。
「こんなトコロもあるんだ」と知ることができただけでも経験という財産を得られた。
1.19池袋Admは久々の出演。以前から手馴れたスペースでもあったが、「成長」という経験値が自分達をこんなにものびのびとしたLIVEに一つのピークをこの時点で迎えている。
観客の反応以前に自分達が「心地よく」音を奏でられる努力を、RocketQueenはここまで続けていたのだ。
それが自分達の「自信」や「誇り」にもなっていったと考えられる。
「伝説」とも語られる2.02吉祥寺CRESCENDO。2006年の解散までホームグラウンドと位置づけられたハコである。この日は記念すべきRocketQueenのCRESCENDOデヴュー。ハードな音を求めていた自分達にとってこの非常に求めていた音環境であったといえる。METAL BANDイベントが数多く行なわれ、そのテのBANDも多く出入りする。ホームとなる場所を欲していた自分達にやっとめぐり合えたともいうべき場所だったといえた。そしてここでの1BANDの持ち時間(演奏時間)は何と45分である。この当時自分達の全てのマテリアルを総合してもおそらくピッタリの時間であることから、
D氏:「じゃあ、時間あるんだし全曲やっちゃおうぜ。」
かくしてリーダー直々の命により怒涛のフルセットLIVEが実現される。
至上初?SET LISTを公開しよう。
2002.2.02 吉祥寺CRESCENDO
1.HIGHWAY GANG
2.NO EMOTION
3.誰がために鐘は鳴る
4.BLACK HUNTER
5.DEADMAN SHOW
6.DREAMS
7.DEVILCHILD
8.君をのせて
9.FUNNY ZOMBIE
10.MESSIAH
ノッケからSPEED IS JUSTICEでガスガスと飛ばすが、ハッキリ言ってどの位置にも休める曲など存在しない。そう、この時代のRocketQueenの恐ろしいトコロは速い曲しかないのである(笑)
今でこそ笑って語れるが、本当に「これが...若さか...」等とシャアのセリフが飛び出す始末でもあろう。
実際この記事を書くにあたり聴き返してみたが、凄まじいテンションが内包されていてこれはイッちゃてるなって本当に感じた。この突き抜け感もまたこの時代の特徴なのだと思う。
このLIVEを見た某氏が「暴走METAL」という命名を与えたとされ、自分達はその名に恥じず、暴走の限りを尽くしていくのである。
ちなみにこの日の共演に仲むつまじいARCADIA(Vocal:TAKERU LAST LIVE)と、運命の初顔合わせGUILTYS LOW(Vocal:KOTAKE)という本当に凄まじい面子。以後、これらのメンバーとも交流が続く。
TomokiのLastlive。
2002.02.04、渋谷gig-anticでまさにこのメンバーでの最高のパフォーマンスが出来たと思う。
自分は先日のCRESCENDOから日も間もないことから声は枯れ切っていたが、そんなことはこの日のLIVEには何の関係もなかった。Tomokiの最後の勇姿を見るため多くの来客もあり、非常に感動的でもあった。
Tomokiが自分からこの日「リーダーです」と仕切り、自身の脱退のコメントをし、華やかさよりも潔さが非常に溢れていたと自分は思う。機材トラブルも各所当然のようにあったが、最後のMESSIAHまでその高いテンションは変わらなかった。
「このメンバーで最後のRocketQueenです」
それはBANDの一時代を築いたTomokiへの賛辞と、今後の新たな新章への布石でもあったといえる。
BANDとTomokiのそれぞれの道。それぞれに心からお互いにありがとうと言えて別れていった。
彼がLIVE終了後、楽屋にて「笑顔」で"ありがとう"と言ってくれたのは非常に嬉しかった。
BANDがもたらす「出会い」というその美しさにこの時非常に感無量だった記憶がある。
これ以後も実際、そして今でも仲良く親交があるのもこの時期を共にBANDで過ごした来たためである。
そして彼が音楽を「表現」と生業とする職人的な道へと歩み出す切っ掛けにもなっていったのだ。
自分は音楽が導いてくれたこの「友情」に今でも深く感謝をしている。
さて、Takumiはというと、METALというジャンルに非常に「こだわり」があり、自分はそのためにだけGuitarを弾いていると言わんばかりの人物であったと記憶している。それまでの彼の経歴から引き出しもかなり多く、BANDとしてのアンサンブルの強化に一役かっていた。人あたりが少し苦手な印象も最後まで拭い切れなかったが。小難しいとまでは言わないが少々付き合いに難があったのも事実だった。
またRyoはDiechan,Tsuyoshiらと同年代であり、非常に好青年な人物であり短期間で深く友情を結んでいた。確かに初々しさもあるが、やる気はあり非常に献身的、向上心も高く、若い割にもしっかりとした裏付けるテクニックがあった。
3.03に秋葉原GOODMANで新編成最初のLIVEを敢行。
新曲はまだ無く、メンバーを入れ替えただけの結果になったが、細かい部分では彼らが弾くリフの精度の差、ガッチリとした刻みによる音の一体感は確かに増していた。
自分はパフォーマンスの一環として黒い翼をつけて登場。寒い失笑を買う(笑)
確実にへヴィな音質に生まれ変わったBANDの姿を披露出来たいい内容であったとも思う。
そして新メンバーによる新たなマテリアルも期待出来る「次」に繋げるLIVEだった。
新生RocketQueenとして第一歩のLIVEという位置付けで自分は望んでいたのが、Guitarの一角TakumiはLIVEの終了後はっきりこう言ったのを今でも記憶している。
「こんなに達成感のないLIVEは初めてだ...」
彼にとってどんなLIVEを目指していたかは今は知る由もないが、彼も自分の新曲を形にも出来ずに、Tomoki
の引き継ぐ形でBANDに参加したにも関わらずその作業で手一杯であり、また他に自分のBANDを持っていたらしいがその活動も駆け出し途中。自分に言わせれば何をもってこの時期に達成感などと言うのか、正直疑問であるといえる。
そのまま、なし崩し的に彼はRocketQueenの活動を辞退という形で脱退へ。
その彼の脱退の態度に腹を立てたDiechanが若く、直情的な言動や行動をし、「ある事件」に発展。この後非常に大きな事態へと急変する。(永遠に語れない内容)
それもなんとかメンバー協力の下、収めてRyoと共にまたBANDを再始動しようとしていたその矢先にまた事態は急変する。
Ryoの「家庭の事情」でBANDへの参加が困難になってしまったのである。
急遽の相次ぐ脱退劇に活動停止は仕方のない判断であった。
今を以ってこの時期とは何だったのか、検証するならば自分はこう考えている。
Takumiは自分のMETAL BANDとしての活動を強く望んでいた。RocketQueenは既に活動を開始しているBANDである。Diechanを筆頭に進めている事にも折り合いも悪く、人間性の相性にズレがあった。
音楽という1つの共有の場で1つの目標に向かい足並みを揃えていくのは可能であるが、その反面、個人が別の目的意識があり、BANDとそぐわない時には我慢しなければならない。そのような事態にお互いを結ぶのは人間関係である。それすらも危ういTakumiとでは関係の持続は不可能であった。
その反面、RyoはBANDに対しても人間関係的にも問題はなかった。
この差を見てもBANDとは、やはり集まった人間の心の信頼感であるといえる。
でなければ、目的のために報酬を出して参加してもらい音楽を奏でる手段の他はないだろう。
そのような不安定な時期であったが、書きかけであったDiechanの新曲QUEENBEE ROCKETの完成させていく作業だけは進めていた。
そして、5月になってDiechanが募集より人選してきたMAKIがKeyboardへ参加することが決定し、RocketQueenはここから大きな転機を迎えることとなる。
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