Tuesday, July 18, 2006

RocketQueen HISTORY(TRUE) 2002-2003,2004 / "Burning From The Inside"














MAKIが加入したことで、それまでのGuitar中心の楽曲アレンジからKeyboardを呈したBAND SOUNDの変換を進めていく。当然Guitaristの度重なるトラブルから、今後参加させるならGuitarは1人でと暗黙の了解がメンバー間にもあった。そしてKeyboardの音圧を出した分厚さと、その変幻自在のヴァラエティーある音色に「煌びやかさ」がBANDに加わった。


そうしたアレンジとGuitaristオーディションを日々時間を費やしながら復活の日を待っていた。

しかし来る人来る人皆、「個人」としては上級者であったが、BANDで合わせると音にそぐわないというか、馴染むGuitaristは現れなかったため、痺れを切らした自分達は「Tomokiクン、暇ならおいでよ」(笑)って...クビにしていながら来いよとは本当に無神経だったと自分にも呆れるが、少し腐り気味だったのもこの時期は事実であった。でも彼も彼でまた来るし(笑)一緒にBANDに合うメンバー審査を彼にもお願いしたという経緯もある。
その中でもKeyboardを加えた音はメンバーにとっても一度客観視するべきだと自分は感じたため、セッションの形を記録するために簡単なデモを録音するべくスタジオ作業へと移る。
目的は未だ決まらない正式なGuitaristへの「音の紹介状」の意味合いが当初の狙いでもあった。そして何よりも大きく変貌したRocketQueenの姿をメンバー自身も期待感をもって意欲的に聴いてみたい気持ちの現れでもあった。低予算・一発録りのつもりが、随分この後大変なレコーディング作業になるとはこの時誰も気がつかなかったのである。


2002年の夏、DiechanのDrum録りから開始。スタジオ3時間をおさえて、マイク立て計8本(最終的に2MIXへ変換)設置。

Diechan録り予定曲>
1.QUEENBEE ROCKET
2.誰がために鐘は鳴る
3.DEVILCHILD
4.DEADMAN SHOW
5.DREAMS
6.君をのせて
7.MESSIAH
8.NO EMOTION(未発表)
9.HIGHWAY GANG

って9曲....彼、Diechanはやりましたよ。たった3時間で。呆れるくらいな早さで。

もし終わらなくて時間追加しようかなんて心配も吹き飛ばし、とっとと早く終わって二人で飲みに行ったり(笑)彼は非常に頭脳派であり肉体派でもあり素質、センスに恵まれている。「自分」という自覚の強さはやはりリーダー気質である。本人は「練習なんかしてない」とはいうが陰の努力と集中力の賜物だと自分は横で見ていて十分過ぎるほど分かっていた。「努力家」という形容が表では公表していなかったが、彼には十分それに値する形容であると思う。


しかし自分はここからが地獄だった。


Guitar,Bass,Vocalと全て自宅の機材において録音していった。それぞれの可能な時間が許す限り何十時間という「こだわり」が招いた終わることなき録音。今をもってしても思い出したくもない。

ちなみにGuitarはTomokiが弾いて入れてもらいました。Diechanが「自分の(Tomokiの)曲だし、自分で弾くのが当たり前」(笑)ま、確かにそうだ(笑)

休みがまるで合わなく、スタジオにも一緒に入れないKeyboardの録音はMAKIに自宅で単独録音してもらい、それをMIXで組み合わせるという手法?テク?で行われた。タイミングで地獄を数回見た。

メンバーの間であがったMIXを聴き、やり取りすること数回。自分でも1曲につき100回程はMIXした気がする。結果、音質こそ酷いものだが、バランスは外していない。細かく言えば音が潰れて聞こえないものもあるが、あの低予算でこれ程のクオリティーはありえない完成度を誇っている。


アルバムジャケット、打ち込んだETERNAL MELODYを追加し堂々完成。ここまでのモノが出来、正直発売もしたかったが、「君をのせて」のカバー曲の著作権の問題やCD-R、全て手作りの安っぽさ全快のため断念。
この無料配布を実践すべく、以前ホームグラウンドと化してた池袋Admで復活LIVE敢行。
MAKI加入後初のLIVEである。
度重なるGuitarist脱退、今なおも続くオーディション、すでに前回のLIVEから半年もの時間が経過している。自分達も焦る気持ちもあったが、それ以上にこの1st(DEMO)Album「the QUUENBEE」の完成によりステージへの渇望が強かった。

8.10池袋Adm「the QUEENBEE」無量配布LIVE
当然アルバム同様にSE~QUEENBEE ROCKETから演奏。実際にはここで初披露であったのだ。
Diechanもこの時期より先に吉祥寺METAL ZONEの住人であり、LIVEにおける「見せ方」というものに少しづつ拘りが現れてきていた。特に彼もドラミングにおけるパフォーマンスも然り、曲の合間の繋ぎ等も決めてLIVEに望んでいった。LIVE会場を販売の場とし、とにかく裁きに裁いた。GuitarはもちろんTomokiに再登場して頂き、いつものように弾き倒して頂いた。脱退後、自ら数多くのセッションの場で弾いたり、プロのバック等の経験などにより随分と見違えていた。

完全な新曲ではないが、自分の書いた"Syncronicity"というバラードを演奏した。
元々打ち込みのシンセ等多用した音にBAND SOUNDでは少々無理もあったとされる。
自分の曲は当時よりBANDには提供してはいたが受け入れも悪く、自分でもあまりらしくないかなって半分は思いつつも出してはいた。まだ自分のSOLOのイメージをまだ少し引きずってはいたと思う。しかし「こういう曲が書きたい」っていうイメージはすごくアタマの中で操作ができるようにもなった。同時に何個の楽器がアタマの中で鳴り響き、音を紡いでいく。それを実際に音に変換する作業がなかなか上手くいかないのだが。

アルバムは主に宣伝・プロモーション用に都内はもちろん、HPを見たマニア(笑)から日本全国各所まで発送した。雑誌にも一部取り上げられ、「やばい...ちょっとメジャーじゃん」(笑)とか思ったり。

そんなドサクサの中、オーディションからGuitar「鬼才」Turboが決定した。
彼はTHRASH METALやDEATH METALに強く影響下にあるGuitarist。その素晴らしいバッキングのセンスは歴代でもトップクラスだと自分は思う。刻みの繊細さが常人からかけ離れてる(笑)それと音に対する「こだわり」も然りだった。彼もほぼマルチプレーヤーだが、彼のその類いまれなるセンスがBANDに大きな効果をもたらす。

この時点ではまだLIVEには対応出来ないため、Turboとはリハーサルを重ねていき、10.13の池袋AdmのLIVEはTomokiに頼み出演に繋げる。
前回同様にアルバムプロモーションの意味合いが強い内容であったが、自分達は単純に楽しくやるだけであった(笑)
温かい来客に恵まれたのもそうだし、共演にARCADIA(Vocal:KOTAKE)の面々とセッションも交わし自分は火吹きを行なったり。相変わらずのやりたい放題ぶりに誰もが安心したんじゃないかと(笑)

こうして本当に忙しく激動だった2002年は終わる。
Turboとの新しいマテリアル作りにじっくりとリハーサルを重ねていった時期でもあり、それだけに費やしていた時期でもあった。

当初から次回に復活する時はBANDの看板といえる「新曲」を携えてやる。それだけに皆集中していたのだった。
加入時にTurboからも思いっきりTHRASH,DEATH METALな楽曲を提供され、自分の中でもCRADLE OF FILTHなどよく聴いていたこともあり、自分はハイを生かしたVocalスタイルとし、以前より交流もあったHINOTOにロウを生かしたVocalスタイルでの参加要請を行い、なんと「W・Vocal」スタイルで更なる進化を遂げようとしていた。アイデアとしては面白いのだが、HINOTOが多忙により確実な参加が難しいことなどから話は立ち消えてしまう。


それから、RocketQueen第2章に相応しいとされる代表曲"STAND ALONE" "PRIDE"の2曲が完成していく。"STAND ALONE"はDiechanがリフをメインで思いついたことから広がり、そこからTurboと打ち合わせて完成に至った曲。大まかな曲の構成は形として完成されてはいたけど、この曲での各メンバーの貢献度はBANDの曲の中でも随一だと今でも思う。
どのメンバーもその当時の自分のできることを詰め込んだ感が印象深い。自分もBANDの曲中で好きな曲上位でもある。
"PRIDE"はMAKIがメインリフとメロを書いてきた所から広げた曲。前述であるが、DiechanもMAKIも吉祥寺Crescendo,目黒LIVE STATIONあたりのMETAL界隈入りするようになり、交流を広げていき、また楽曲やパフォーマンスに至るまで自分のBAND "RocketQueen"として非常にこだわりが強くなっていた時期だと思う。
実際、そのこだわりから各メンバーへ求めるモノも高いレベルとなり、BAND内での衝突も少しはあった。MAKIに関しての経歴は詳しくは知らないが、POP BANDの経験や自分なりのVocalist像があり「歌・メロディー」に関しての求めるモノはレベルとして高いと思う。
ただ、今でこそ言うが、最終的に各個人のパートであり、他のパートが操作をするべきでは自分は「ない」と思う。Vocal,Guitar,Bass,Keyboard,Drumsと、それぞれの各個性の集まりの中で音が構成されているのだから。それではBANDとしての機能が狂ってしまう。
それぞれに「言い方」も若い気性から全然マナーも容赦もない。自分が言った言葉の影響を考えもせず使うことも度々だった。根に持っているわけではないが、自分でさえ否定された表現に対する「暴言」に近い言葉の数々は今も覚えている。しかし、BANDを大きくするために全員が一生懸命だったし、その中での「ひしめき合い」でもあった。成長し、進化をたどる中で必要な衝突の数々だったと、今は思える。

2003.4.05吉祥寺CRESCENDOでの大復活。ここまでに実に入念なリハーサルを重ねたことも自分達に「自信」をもたらしていたが、何よりもDiechanが交流を深めた仲間達も大集合し、ここまで僅かな活動期間からこのスペースを満員にしていたことは非常に誇らしくもあった。
GuitarのTurboの一閃とも言える明らかに「生まれ変わった」RocketQueenの迫力の音。
Tsuyoshi等の男気溢れるコーラス。さらに磨き上げたDiechanのドラミング、楽曲の幅や音そのものの印象をガラリと変えたMAKIの繊細なアレンジ。自分はとにかくこの「熱さ」を誇る自分達の音というものを皆に届けるべく、気合いを入れて叫び、煽り、パフォーマンスを続けた。
非常に「剛直」になったともされるが、リリカルな歌詞は健在し、より自分の中では詩的表現へと突き進んでいくこととなった。
追伸だが、Tomokiの"DEVILCHILD"がサビのメロを変更し、"NEO-DEVILCHILD"としてBLACK METALのような曲に様変わりしたアレンジで披露もされる。

LIVEも成功に終わり、新曲のレコーディングへと入る。
大塚PENTAスタジオにて、METAL界隈の名のあるエンジニアとの録音作業。たった1日での製作期間。
新曲としてシングル「STAND ALONE/PRIDE」を発表。店頭にも実際販売され、正真正銘・世に出た最初の音源である。自分でも思ったが「こんなに簡単に売れるんだな」って印象はもったかな。だからちゃんとした残るものを作らないとなって。どちらの楽曲もそのクオリティの高さからA面扱い(1曲目扱い)ってことでタイトルがそうなった。事実この手の良質な曲をやってるBANDなんて悪いが見回しても居なかったハズだし。絶対的自信がこの曲にはあった。歌に関しては個人的に全然ダメだけど。大事に聴いてもらってる人には悪いけど、歌の表情が嫌い。表現力と歌に対する基本がなってない。

それに伴い吉祥寺をホームとし、LIVEを重ねていく。Tsuyoshiの手グセのようなスラップを原案・広げ形にした"PROVIDENCE"、LIVEでは演奏はされず、未発表曲であったが、自分の"PERFECT WORLD"やMAKIの"DENIAL ETERNITY"等新曲のセッションも続けられていた。

6.28吉祥寺CRESCENDOでは再び鮮烈にパフォーマンスが出来、会場にてシングルの販売も行なわれた。
7.05北浦和Ayers、それ以後も様々な場所へと出向き音源を売り歩き、新たなファンの獲得に活動を続けた。
8.02新宿ANTIKNOCKは音環境が良く、レギュラー出演を申し込むが店の色のBANDでないこともあり、断られてもいた。
9.07吉祥寺CRESCENDOではあの"DREAMS"を現在のメンバーでアレンジ。爽やかさを抑えて少しへヴィなイントロに差し替えて演奏したが、来客には不評であったと聞いている。
10.18恵比寿GUILTYではTomokiが加入していたBRIDGE OF TEARSとも共演。会場作りは上級なのだが、自分などは「METAL復古主義」的なこのイベントに嫌気がさしていた。自分は決してMETALという音楽に対してもういい印象など持ってはいない。すでに過去のブームの音だという印象も強い。しかし、このRocketQueenというBANDは現代の音を鳴らしていると思うからこそ出来るのである。そこだけに固執しているBAND達は自分の目には何の興味の対象にもならなかった。
11.03目黒LIVE STATIONへ出演。これだけMETALのイベントに出てはきたが、このハコに出るのは初である。確かにやりやすい音環境ではあると思う。しかし、通常ブッキングで出演の機会がなかったためスタジオの企画LIVEにねじ込み、あのBIBLE BLACKがそのスタジオで見かけたため、半ば強引に共演に引きずり込み(笑)出演したのだった。
他の共演にガキんちょ達の浮かれたLIVEに機嫌も悪く(笑)出演後も楽屋で騒いでいる姿にDiechanが一喝。
「うるっせェ~んだよォ!出てけッこのバカ!」

しかし自分達がステージへと入ると以外に若いコ達も食い入るように聴いてくれたり、反応はよかった印象がある。
このLIVEをステージ袖でみた荊のメンバーが自分達のイベントに今度出て欲しいと出演依頼があり、これらの活動が無駄でないことを心から知る。

年内約月1回のペースでLIVEを行っていたが、自分は働きながらの専門学校通学中、他でもメンバーそれぞれ働きながらのスケジュールで限界もあった気がする。それでもその1本のLIVEに賭ける意気込みも大きかった。動員の難しさに関しても皆シロートだったし、情けないものもあった。他のメンバーがこの時期どう思ってたかは知らないのだが。

2003年ラストとなる11.22の吉祥寺CRESCENDOでのLIVE。MAKI,Turboという才能に溢れたメンバーの加入により、それまでの活動から飛躍を見せたこの2003年という年は確かな手ごたえとなる活動期間であったとされる。後にも先にもこの期間がなければRocketQueenというBANDは存在しないのである。それほどに強烈な個性を持ったメンバーが集まったのだ。
この頃より、ラストの大団円をつとめる曲として "MESSIAH"から"GO AHEAD"へ形は違えど演奏され始めている。

もっとBANDをアピールしたいというプロモーションのために、音源製作「無料配布」をまたここで敢行。代表曲「QUEENBEE ROCKET」が録音された。新メンバーによる音源が「STAND ALONE/PRIDE」のシングルしかないことも考え、しかも配布用としてもそれなりのクオリティが欲しいという理由があった。
自分は録音に関していつもそうだが「時間がない」ということ。金銭面的ものもあるが、各パートの配慮の欠けるのも事実。それでもそれぞれがそれぞれに不満を振り切って頑張っていた。BANDが「難しいもの」っていうのはこういう部分ではホントに思う。精神面での葛藤がハンパじゃない。それもこだわればこだわる程に。


配布用シングルが完成し、年末の会場や多方面にDiechan,MAKIなどが中心に配って回っていく。自分も地元周りを中心に各方面に自分の手で配って回っていた。LIVEに一人でも多くの人が見に来て欲しい、それを願う自分達の強い思いを胸に、いわば裏の活動でもあった。

しかしここに来て、2003年の末、Turboより脱退の意思が表明される。その突然のコトに、メンバーも今飛び出すよりはSOLO活動なり、メンバーが固まってからにしたらと、RocketQueenとの共存を彼に望むが、本人は「やるなら1つに集中したい」と強い決心があった。その場は彼も強く出ずにBANDはブッキングされたLIVEをこなしていく。

2004年になり、1.24北浦和Ayers,2.28秋葉原PAGOTAと演奏の出来としてはレヴェルの高い質のあるものであった。
特にPAGOTAのLIVEはこのメンバーになっての最高の出来でもあっただろう。自分としてはこの先に続く音の行方がもっと見てみたかった。LIVE終了後にTurboも「いい出来のLIVEだったし、納得もしてる」と表情も良かった。
しかしその後に彼の仕事面での多忙化、なし崩し的なまま自分の新BAND結成、RocketQueenはLIVE活動の続行からとりあえず2004年の3月、4月、5月とバタバタとスケジュールは決定されていた。彼の意思と反するように。


結果は「破綻」。

Turboも焦燥感が募り、その閉鎖感から衝突し、特にDiechanとの亀裂から離脱、音信不通へ。BANDとしても活動を緊急停止せざるをえなかった。それがまた間の悪いコトに3月のLIVE直前であり、多方面に影響が及んでしまう。結果「逃げた」と彼には非常に重い罪が科せられる。




その後、僕は自分から連絡を取り、彼のその精神的苦痛、事情も認めていたこともあったのにこの事態を収められなかった自責も告げる。確かに結果「逃げた」とされているが、Turboの心情を汲むなら誰が悪いとも責められないハズだし、連帯で責任の所在を探るなら「この時期のBANDそのものが悪い」と自分は個人的意見として言わせて頂く。

BANDは人の信頼関係で成り立っている、自分達はそう考えていたし、それしか在りえないと思っていた。
だからこそ、こうした「別れ」は非常に痛いものだし傷つくのだ。

リーダー・Diechanを側で見ていてこの時、ガクリと肩を落としていた彼を非常に痛々しく思えたことを印象深く記憶している。
しかし悔しさもあり、「絶対に負けない」と強さもまだ見られていた。
自分もここで終わりにしなかったのも「まだやり残している」という意識があったからである。


正念場、まさにその時だった。

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