Monday, July 24, 2006

RocketQueen HISTORY(TRUE) 2004 / "Nobody's Perfect"


2004年03月、Turboの脱退が決定し、活動再開の手立てとして再びGuitarist探しへ。

一体何人オーディションしただろう?
音を出さなくても会うだけの方を含めて10数人いた気がする。
その中にRocket最終・最高のGuitarのYU:ZIも含まれていた。
ちなみにこの時彼は「とある事情」で合流せず。実際それどころではなくなってしまったというのが正しい。
確か夏前?5・6月だったと記憶している。まず初顔合わせが新宿の飲み屋にメンバー全員集合で対談。最初から「酒」かいっ(笑)と突っ込みたくもなるが、初対面はただただ好印象。後日スタジオにてフライングVを携えてやってきた彼は、"MESSIAH"や"PRIDE"など数曲を合わせた。この時点で音・テク共に問題なし。ていうか、自分は絶対彼で決まりだと思っていた。
しかし、残念な事にこの時点では合流できなかったが、個人的にもいいGuitaristであった印象もあり、非常に信頼を寄せられる人間性にも好印象に持っていたため、単純に「音楽を好きないい仲間」の一人として連絡は取っていた。


それからオーディションを再開した中でShinjiがとりあえず決まり、リハを重ねていく。
最初の音出しから自分はちょっと「キツイな」と思ってはいたが、これ以上人選を続ける手立てがなくなりつつあり、全員の意見として「まぁ、いいか」的判断で採用に踏み切った。

しかし、リハを重ねていくのだが、BANDのレベルに彼がいつまでも追いつけないでいた。
そんな状況下ではあったのだが、「見切り発進」的にLIVEの予定が組まれていく。ここまで活動していると周りが黙って時間をくれない。「次のLIVEは?」とハコ側から引っ切り無しに誘いがきていたのだ。


「とりあえず問題は山積みだがとにかくやってみよう」
2004年09月11日に吉祥寺CRESCENDOにて再復活公演を行なう。

この時期の新曲として、自分は"DIE FOR YOU"を提供。ここでようやくBANDで採用曲となる。
確か最初のBANDアレンジは自分以外のメンバーによるそれはそれはヤバイ(笑)コーラスで始まるもので、この時期を前後してコーラスを全員参加でやるといった趣向も見せていく。
他にも自分は"DESTINY"というミドルの曲も出すが特に合わせずそのまま消える(笑)
LIVEに向け、聖飢魔Ⅱの「SAVE YOUR SOUL」のカバーなども飛び出した。

それぞれが、思いたっぷりに迎えたLIVEだったが、


「待っていた方に申し訳なかった。」


自分も含め各メンバーも感じていた違和感。確かに結果として不安定なままでのLIVE敢行、加入したShinjiも自分自身のテクニックに対する自信が持てないままの演奏に終了後、「もう限界です」と言い残して逃走。

またしても「離脱」。


ドン底だった。

自分はShinjiの加入に対し、正直彼にRocketQueenのGuitaristが務まるのか不安は滲ませたままであったが、彼自身からも「頑張ります」との言動や積極的にどうしたらよいか?と直々に教えをメンバーに請うこともあり、正直頑張って成長し、応えて欲しくもあった。
自分達は数々のGuitaristを見てきたことから、このBANDに加入させることの難しさがある。
BANDのGuitaristとは本来「自分のBAND」的志向が強く、加入には向かない率が高いとされる。
実際、「今までのマテリアルを捨てて新たに」という形なら加入という方もいた。それだけ難しいと判断したBAND側が、逆に「育てていく」というやり方で加入を認めた。
そういう事情があったのだ。しかしたった1本のLIVEから彼もBAND側との溝と壁の高さに迷いが出たのであろう、自ら脱退の意思を告げられる。

しかもその後に予定されていたLIVEに構いもせずに。

この時期既に年末10月、11月、12月と3本のLIVEはブッキングが組まれてしまっていた。
BAND側としてもう止まれない状況下にいる。激しい怒り、途方感はあったが、呆れて愚痴るヒマなどなく、即刻サポートでいいとGuitaristに片っ端から連絡をとる。そこでなんと奇跡的にYU:ZIと連絡が繋がり、彼が参加することになった。

「今度RocketQueenが復活する時は必ず見に行きますよ」

YU:ZIが以前に連絡を取った際に言っていた言葉である。しかし、まさかその見に行く筈のLIVEに自分がRocketQueenのGuitaristとしてLIVEに出演するとは、本人が一番驚いていたことであろう。


スタジオで音出した瞬間、彼の加入が決まったようなものだった。

D氏:「前に合わせた時より上手くなってるよね?」
Y氏:「ずっとファンだったから家でも弾き続けてたんですよ」
全員:「決まりだね」

実際、彼の環境も整い、晴れて正式な形としての加入へ。この出会いは、本当に夢のように「音楽」が繋げてくれた美しい出会いであったと今も思う。自分が「BANDは人なんだ」と確信し続けたことが現実となったものだった。

彼も彼で、最初のセッション後もRocketQueenのファンでいてくれたのも大きい。こんな両思いの形を本当に待ち望んでいたのだ。それ故に「喜び」というのがメンバー全員の心から湧いた。



「RocketQueen至上最高のGuitarist。とうとう参戦である。」



組まれていた年末3本のLIVEの最初、10.23は僕の地元埼玉・北浦和Ayers。
YU:ZIは参加してわずか1・2週間でLIVE(笑)しかしLIVEにおいて既に以前からRocketQueenの一員であるかのように驚くほど「自然」だった。彼のGuitar soloに背筋が震えるほどのの快楽を得た時もある程に。

関係はないが、この日まさに当日新潟であの「地震」があり多大な被害に見舞われた。今もなお復旧に大変だろうと思うと非常に心が痛む。

11.13池袋CYBER。個人的にSOLO時代に度々、DARKなBANDのファンとしてよく見に行ってたものだ。そこに立てる自分が非常に嬉しくもあり、「楽しもう」という姿勢にもなれた。このイベントに誘ってくれた荊(イバラ)さんには非常に感謝に絶えない。以前、Turbo脱退でキャンセルしてしまったイベントのことも含め本当に申し訳なさとありがたさを思っている。

そしてこの月はもう1本11.27に沼袋SANCTUARYというMETALの聖地と看板を掲げたハコにも出演。
個人的意見で悪いが、ダメですね、ココ。何よりもスタッフが出演者に対して全然対応がなってない。
気持ちよく演奏させてもらえる環境では全くなかった。リハでも自分が、「フロントの返しをDrumの3点(ハイハット・スネア・バスドラ)強く返してください」と言ったにも関わらず、再び演奏を開始してもいつまで経っても改善されなく自分は歌うのを止めた。メンバーも何だよ?と言って止まるが、再度自分が同じようにP.Aの方に伝えるとそれはそれは嫌ーな顔しやがった。その時点でもうその1日は気分悪かったね。ていうか、このクソ不便な立地条件の場所までわざわざ来て、何でこんななめられた対応されなきゃならないんだ?とブチ切れたまま本番を迎える。演奏開始すると自分はステージ前方へ駆け出して行ったが、モニター蹴り落としてやった。ふざけるなと。あれだけリハで打ち合わせたバランスが全くもって生かされていない。本当に腹立たしい。そんな怒りに満ちたステージングが、逆に観客からは気迫に満ちているかのように映ったらしく、それなりに盛り上がっていたと思う。個人的には評価の低いスペースです。

この怒濤のような1年を締めくくるに相応しく、12.25の吉祥寺CRESCENDO。
MAKIの新曲"COCOON"や確信犯的必殺の"地獄の皇太子"のカバーにより会場もかなりヒートアップしたと思う。YU:ZI加入間も無く最高のパフォーマンスとともにこの年をしめられたことに感慨深い。
本来のハイパーテンションなBANDの勢いが出てきたといえる。


これぞ自信をもって言える"We're RocketQueen"のコール。
最高の形でRocketQueenは飛翔するのだ。

この年を振り返るにあたり、「最低」の気分から「最高」の気分までメンバー全員が体験した。
それが皆の心を強く繋がりを持てた結果であるとも思える。

自分がこのBANDが「最高」と思えるのは、やはり「絆」だったと考えている。

そして、いざ激動の年。"RocketQueenの年"でもある"2005年"へ。

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