Sunday, September 17, 2006

RocketQueen HISTORY(TRUE) 2006 / "The Vanishing Signs"


年が明けて間もなく吉祥寺で年明け恒例イベント「飲み会セッション」にメンバー全員で参加。
メンバーが年明けて初顔合わせが飲み会。それぞれがそれぞれに好き勝手しまくりな呆れたセッション(笑)MAKIは司会。しゃべりがまた全然やる気なし。野放し状態。DiechanはBass弾いてるし(笑)自分は相変わらずDEAD END。てか全然ダメでした。セッション向きな選曲しないしね(笑)

年末最後のLIVE後からBANDにとって久々に時間が空いた。
大阪LIVEイベントまでリハの時間なんてほとんどナシ。ちょっと油断してた。みんな曲忘れてる(苦笑)...
そしてここで問題勃発。それぞれプライヴェートが多忙なメンバーであるため、各自現地集合なのだがその足の決定に「もめ」に「もめる」。大阪LIVEが日曜日のブッキングのために、自分とDiechanは新幹線でとんぼ返り。MAKIは機材もあるためクルマで行くのだが、Tsuyoshi,YU:ZIと一緒に行くと当初予定していたらしい。だが、TsuyoshiらはMAKIとのコトもあり、彼ら的には当然、夜行バスにて行くことにしていたのだ。しかもよりによってNAKIの目の前でバスのチケットのやり取り。

「ふざけんじゃねェーよ」

本気でぶち切れのMAKIが激怒。Tsuyoshi達も最初の段階で断りを入れてなかったのも確かに悪いのだが、LIVEに明け暮れていて余裕もなく、解散のことでゴタゴタしてたこともあったためにまともな「行き方の情報のやり取り」がされていなかったのだ。リハが終るとブチ切れ、半泣きでMAKIは出て行く。
これにより大阪LIVE敢行が目前で危ぶまれ、最終的にTsuyoshi,YU:ZIがハラを括り、平謝りして何とか事態は収拾。
この時Tsuyoshiってホント恵まれない子だなって心から思ったものだ。
Diechanにも事態の連絡し意見交換。「あと少しだから」と終始呆れている。
その電話内で「オレ来年結婚しちゃうよん」っていきなりの電撃話題も飛び出す。彼の行動力は本当に素晴らしいというか凄まじい。そして羨ましい(笑)

寸前で色々と危ぶまれたが、かくしてRocketQueen大阪公演は強行敢行されることになった。


自分は朝一の新幹線で大阪には昼前に着く。初めての大阪の地。事前に手持ちのMAPで確認しながら、自分が敬意と憧れをもってやまないBANDやアーティストが出演した「難波ROCKETS」へ到着。
他のメンバーに思い入れがあったかは知らないが、自分にとっては本当にはしゃぎたくなるほど嬉しかった。
ステージは高く、広め。何故かほぼド真ん中に支柱が突っ立っている。そして楽屋がまた面白い造りで、割と広めに構えている。しかしイベントでこれだけのBANDが出演となればごった返すのは必死。当たり前だ。この建物は電車の線路のガード下にある店なので楽屋内にも「ガッタンゴットン」列車の通過音が響き渡る。
リハもそこそこに終わり、メンバー全員で難波の町を闊歩。皆でお好み焼き食ったり、自分はぶらり買い物してみたりと、少なく限られた時間ではあったが満喫しようと出来るだけ大阪の町をこの目で見て回りたかった。また是非機会があったら今度は観光で来たい町だと思う。

皆で昼食をしていた時、談義で「余ったBANDのグッズ」などをどう処理しようかという意見がでた。様々な意見が出た中、「福袋」としてみんな抱き合わせで放出しようと決まる。しかもラスト2本のLIVEで計50 SETのみ「限定」で。もちろん「目玉の品」に今まで外部には一切出していなかった「LIVE音源」をここで出すというもの。とにかくレアの中のレアなヤツを。もちろんエアチェックの「鬼」である自分に編集作業が事実上任されることになり、自分の詩集の編集と板ばさみになりながらも、とりあえず次回埼玉ラスト公演に出すと、話し合いの結果決定した。大阪・難波ROCKETS LIVEが2006.1.29、次回の埼玉・大宮Hearts LIVEが2.12であること。その間、たった2週間足らず。自分の詩集が完成のメドも立ってないのに不安だらけだったが制作に取り掛かることにした。


間もなく本番。案の定最初のBANDの演奏から開演が押してる。自分とダイちゃんは即日撤収だったので、出演順をなるべく早めにと考えてもらっていたのだが、実際はド真ん中の時間帯に登場することになっていた。

「これは新幹線最終に間に合うか微妙だよね...」
「終ったら走んなきゃヤバイかもよ...」

一抹の不安に駆られながらも、演奏が始まるとそんなことなど考えもしない。
とにかく自分達のテンションの高さでつっ走りまくる。1曲目からJUST BRING IT。
リハ不足で荒い演奏であったが、終始弾けてパフォーマンス出来たことは自信でもあった。こうした様々なBANDが出演することだし、色んなBANDともっと交流を深めたかったがそんなヒマなど微塵もなかった。東京からもわざわざ来てもらえたお客さんも多数おり、本当に心から「ありがとう」と言わせて頂きたい。とにかく自分達のROCKを、自分達の表現力の限り、全てを以って届けたい。その強い「思い」と、"大阪なめんなよ"と言わんばかりの「気合い」それだけが溢れていた。

実際勢い余って自分はマイクを客席までぶっ飛ばしたり(笑)
ラストのQUEENBEE ROCKETでは意外に聴きに入っていた客達に"気合い"を入れるため、客席まで降りていき絶唱。煽りまくる。
客の目には「さぞかし恐ろしいBAND」に見えたことか。RocketQueenの存在感・音をストレートにアピールをしたつもりだ。


終了後、もちろん大荷物抱えながらもダッシュ。しかも自分は衣装のままで。途中で道に迷いながら冷や冷やしつつも、何とか新幹線乗車。車内で着替えたり(笑)お疲れ乾杯したりと、これまたやりたい放題。
ここでDiechanと本当に久々にゆったりと談話した。話しながら本当に「兄弟」のような親しみも感じたし、「ホント、今まで頑張ってきたよな」なんて活動を思い返しながら、心からお互いを励まし合えた。

音楽が繋げてくれた「出会い」そして「友情」。

自分はこのBANDが選択した「結果」は寂しくもあるが、ここでBANDに対して「悔い」が消えていった様だった。救われた気分になった。Diechanと静かに語り合えたことで。
彼も新BANDの構想を本当に熱を込めて語っていたし、新たな情熱を燃やしていた。
こんないい表現者に出会えたことに自分は何よりも幸せを感じる。

大阪でLIVEが出来た。しかもこんな強行スケジュールにも関わらず。そしてまた一つの「夢」が叶い、また新しい「夢」へと突き進んでいく。
自分が生きて表現を続ける素晴らしさをこれほどまでに実感したことはなかった。




そして帰ればまた編集作業。「詩集」の制作は本当にギリギリまで、その作業に追われた。
「魂」をすり減らし、削る作業だった。
だが、その非常に多忙な中で、次回の埼玉Last Nightで販売する「Rocket福袋」のLIVE音源の編集もせねばならない。LIVE後の約1週間、ほとんど寝ることも許されなかった状況は思い出したくもない。
LIVE前の数日前までで、自分はYU:ZI加入前までのLIVE音源までしか編集が終らず、
「悪いがここまでしか出来ない。3月のLAST LIVEでYU:ZI加入後のLIVE音源を別に出しては?」
と申し出るが、意見は通らず、またしてもMAKIに冷たい言葉の数々を浴びせられ、ここまで温厚に進めてきたが、イライラ度がピークを越えて"切れた"。
「そんならもうやるか。勝手にしやがれ」と自分の編集盤は破棄するとメンバーに伝える。
しかし、リーダーDiechanが取りまとめ、
「3枚組にするからいいよ」と。MAKIとDiechanとでYU:ZI加入後のLIVE音源は制作するいうことで事態は収まった。

一つ何かを進めるにもメンバー全員の意見を交わすことはBANDとして常に大切なことだ。彼女以外のメンバーの誰かが一つの意見を出すと、何かにつけて揚げ足をとるような発言を浴びせたり、「何でもいいよ」など自分に興味のない場合は意見すら出さないこともある。客観的に見ても非常に険悪な様子に自分は映った。最後の最後まで気持ちよく、というには中々コトが運ばないものだ。

「孤立」と「閉鎖感」
寒々とした空気が本人を除いて、他のメンバー全員に吹き荒れていたのだ。




2006.1.30 「解散発表」
その記事を見たとき今まで支えてくれた方々はどのように思ったことだろう。
自分達は解散の決定後もその旨を発表せず、静かにこの時を待っていた。



個人的な意見と見解でこのRocketQueenという偉大なBANDの歴史についてを書き記してきている。ただやはり、「解散」に行き着くまではこれ程のドラマがあったのだと、ここで自らも告白をしている。この連載を読んだ方がどんな意見を持つのかは自由なことだ。だが、そして知っておいて頂きたい。


「この燃え盛る炎を纏い、流星の如く駆け抜けたBAND・RocketQueenという存在の証を」

0 Comments:

Post a Comment

<< Home