Saturday, August 26, 2006

RocketQueen HISTORY(TRUE) 2005 / "Comealive, in the heat of the nights"


アルバムレコーディングを終えて、LIVE活動を再開させたBANDは年内をアルバムセールスのために活動をしていく。実際は単純に新しい音源を作ったので、LIVEに力を入れて自分達の音をシーンにアピールしていくのが当然の流れだが、今回は世間一般に事実上まともな「商品」を作った意味合いから、よりプロフェッショナルな活動が望ましいとされた。
かくして、メンバー全員での話し合い・協議を経て、アルバムリリース後からの活動を決めていく。そのメンバー間の話で、ここでもやはり先ず口火を切ったMAKI。
「人が入らないようなイベントやライヴハウスに出てもしょうがない」「アルバムを売るために...」など活動に対する自身の強硬な意思の表示であった。
確かに自分達は現在、インディーズで活動をしている。が、勿論今までもしっかりとしたプロ意識の下に集まり活動を行ってきた。だが、ここで問題になってくるのが各メンバーのこのBANDに対する思いである。既に各々メンバーが、自分の「目指すBAND」の理想の形を各個人の中で掲げていたのだ。特にMAKIの「自分の理想とするBAND像」への活動の進行速度・展開に向けた計画・立案に対する意欲はメンバー内でも最も強く、リーダー・Diechanは「あくまで自分のROCKを貫く孤高のBAND像」へのこだわりと自信、そして自分は、「この5人の個性をより前へと押し出したカテゴライズされない強力な一体感を持つROCK BAND」への成長。いわゆるLIVEで叩き上げていくという方向性への意欲...それぞれが自分の持つポテンシャルから少しずつズレが生まれていたのだ。
結局、それらの意見の合致する部分を縫うように月に約1・2本のペースで進めていくことに決定された。

「LIVE活動」
その1本1本に自分は本当に命がけとも呼べるテンションで望んだつもりだ。

2005.06.12 目黒LIVE STATION
約半年ぶりとなるLIVE。アルバムを完成させた自信から、全員が素晴らしいテンションを炸裂させたといえる。これ以降のLIVEでようやく「聴ける」レベルの演奏になったと思う。もちろん、自分の歌も含めてだが。LIVEテイクに関して言えば、今までは「波」があり過ぎた様に思える。「最高の時」と「外した時」の落差が激しかったのも確かな事実である。YU:ZIというBAND至上最高のメンバーを得たことで、演奏形態に確かな「安定感」がもたらされたのは、確信と自信を持っていえる点であるといえる。
激しく、何処までもハイなパフォーマンス、そして何よりも「熱気」。
このLIVEからBass/TsuyoshiのMCがセットにレギュラーで盛り込まれる。もともとこのBANDの中で、「最も人間味がある人物像の持ち主」である彼のキャラクターを前面に出してLIVEの空気感を転換させる役を担った。やはりこの男・要注意人物である。

2005.07.31 吉祥寺CRESCENDO
アルバム「GROUND ZERO」先行発売となった記念LIVE。メンバーとも親交のある"Mastermind"の10周年記念企画LIVEに呼ばれ、Mastermindの「Rocket流・カバー曲/Fire in you heart」も用意し、満員の会場に自分達のスタイルでねじ伏せるような「勢い」と「気合い」に満ちたLIVEだった。会場を覆った熱気も決して悪くなく、やはりハイライトはカバー曲をRocketQueenでしか出来ないヴァージョンで演奏したことも大きい。会場に設置した自前のカメラ映像も迫力に満ちていたことも特筆すべきだろう。アルバム・ブックレットのインナー写真と同じく全員でお揃いの出で立ちで(スーツ)登場し、よりトータライズなヴィジュアルコンセプトで見せることも出来た。だが、機能的にはこの衣装は正直キツイ。派手なパフォーマンスの自分達には「枷」としか言えないものだった。


そして、ここで再び10月発売予定のコンピレーションアルバム、"SAMURAI METAL VOL.1"に収録される未発表の新曲である「JUST BRING IT」の録音が開始される。自分はアルバム"GROUND ZERO"で悔いていた「歌の表現」に十分な自信と意欲をもっての歌録りの開始。前のレコーディング時にMAKIに吐き捨てられた言葉の中に「ヴォイストレーニング行きなよ」ってものもあったが、実際自分のツテから声楽家の歌唱指導者に訓練をお願いする運びになった。別に彼女に言われて悔しいから通いに行ったのではないが、あくまで自分の今の技術の限界を超えたくて指導を仰いだつもりだ。
そこで実際にやったのは「腹式呼吸」と「口の開き方」、「声の響かせ方」等のようなもの。その声楽家に言わせると自分の声は叩き上げた実践の末の独創的な歌唱形態にあること、声楽と同様に生かせる部分を盗んでいけ(笑)と、指導があった。STAND ALONEのメロディ等もベテラン中のベテランのプロを「ホント普通じゃない」と言わしめ(笑)こんなの無理(在りえない)とまで言われた(笑)
とにかく徹底のマンツーマン指導も実り、自分の中でも「歌」に対する意識や感覚がそれまでと変化をもたらした。
そして、これ以降順調に声は伸びていったし、今までのようなあまりに無理な発声による叫び方への抑制もだいぶ効くようになった。歌にも自分で表情を付けられていったし、前回よりは満足のいく出来ではあった。

2005.08.21 北浦和Ayers
自分の地元、第2のホームグラウンドでもあるこのスペースでアルバム発売後のさらに熱を帯びたテンションで大入りの会場にかつてない手ごたえを見る。本当に凄まじいLIVEをやってのけた。そんな充実をおぼえた最高の盛り上がりであった。確かに内輪の客も多く含んではいるが、ステージから人の壁を見下ろすのは「爽快」そのものである。本気でLIVE中にダイヴしてやろうかと思った(笑)特に本編ラストのGO AHEADの会場全体を包む大合唱は今も胸に焼き付いている。「あたたかい」非常に幸福感に包まれた内容であったと言える。

2005.08.27 四谷OUTBREAK
初めて訪れた場所だが、ブッキング時にMETALやROCK系の対バンでという触れ込みでLIVEを敢行したが、空けてみたら全く関係のないアマチュアニズムな内容にテンションを下げられる。まぁ、個人的に嫌いではないが。会場によって様々なバラつきは仕方のない条件。自分達にあったLIVEスペースを未だ探し続けていたことも確かな狙いでもあった。どちらかといえばクラブのスペースに近い感じで、このアルバムの曲の壮大なスケールには狭すぎたと実感。音に関してもだいぶ甘い。新しいハコという条件もかえって悪い方に転がった。

2005.09.11 吉祥寺CRESCENDO
再び吉祥寺。自分達のホーム。同僚・Freaksxxxのレコ発企画。単純に客としても楽しめたLIVE。何故かトリを任され、客の微妙なテンションに引きずられまずまずの出来。とにかくスピードで押すナンバーを矢次に演奏し、怒涛のセットで立ち向かう。珍しくアンコールをせがまれてやったのもそれなりの充実か。このあたりから自分はプライヴェートの仕事が非常に多忙になり、LIVEの後の打ち上げに一切参加しなくなっていく。今思えば、こうしたコミュニケ-ションの不通も他のメンバーとの距離を広げていくことになっていったのかもしれない。

2005.10.01 横浜ARENA SOUNDHALL
初の横浜公演。Guitar/YU:ZIの地元行脚。あの横浜ARENAを横目に非常に整備されたいい会場。特にスタッフの気配りが特筆すべき点である。最高の会場作りとはこういうものだと改めて思い知らされた。リハの徹底した打ち合わせはやる側に非常に安心感を与えてくれた。そして照明の上手さ、モニターのバランスも最高レベル。会場が広めなため自然のリヴァーヴがかかり、またこれも気持ちいい。ただ、悲しきは観客の入りの少なさか。自分達のプロモーションの下手さが目立った。対バンも熱く、いいBANDが出演していて、会場を盛り上げていた。LIVEで初披露のBLACK STARS HEAVENや後日発売を控えたコンピレーションアルバム・"SAMURAI METAL vol.1"収録の新曲JUST BRING ITの披露など話題に欠けない。地元での演奏に気合いの入りまくったGuitar/YU:ZIの熱い演奏に負けるかとステージで火花が飛んでいた。
観光気分ではないが、ここまで本当にほぼコンスタントに様々な場所でLIVEを行い、気持ち的にはツアーのような気分も味わっていた。自分は本当にこの時間を楽しく、喜びを感じていた。各メンバーも陽気でいながらも、それぞれにピリピリとした緊張感は持ち合わせていた様子だった。

そして、それぞれがここまで考えていた「思い」が静かに胸の中で弾けていった。
それが後日、BANDの運命を加速させていくことになるとはまだ誰も知りもしなかった。

Wednesday, August 16, 2006

RocketQueen HISTORY(TRUE) 2005 / "Album[GROUND ZERO] Recording sessions part.2"


2005年2月より実際の録音に備えてメンバー協議の下、「プリプロ」という手順を踏んだ。
自宅録音による試し録りである。各メンバーがそれぞれに考えている音像を他のメンバーが把握した上での録音。そのメリットは特に楽器陣においてあらかじめ把握することでスムーズな録音を進行させようとする思惑があった。
しかし、全て歌録りまで終えてメンバーに渡ったのは実際の録音が始まった後、あるいは直前である。
MAKIがレコーダーの管理をしていたのだが、自身の録音のフレーズに最後まで振り絞っていたと思われ、そのため自分にその「オケ」が回ってきたのは本録音開始の数日前である。仮とはいえ歌の録音に時間を与えられたのは極わずかであった。こちらは歌詞を完成させ、コーラスのラインを考え、その上で自分でも客観的に聴いてから再度直して録音に望もうとしていたのだが、自分には一切の時間などは与えられることはなかった。こうした過程でなし崩しにスケジュールに追われ録音は進んでしまったことが最終局面で問題になっていく。


録音スタジオは板橋にある「Yellowknife studio」。プロツールという最新の技術を生かしたHDSレコーディングで行われることになった。この技術を生かすことで録音機械自体の作業がスムーズに進み、より録音にかけられる時間が多くなったことは最大の利点でもある。
レコーディングはDiechanから開始。相変わらずのテイクの速さでほぼたった1日で収録曲の全てを録り終えてしまう。
この辺のdiechanの集中力の凄さはやはり格別なものだ。今回は彼のDrum人生集大成でもある最高の、完璧なドラミングを目指して望んだことが何よりも違うところでもあった。そして彼はあまりの完成された自身のテイクに一つの達成感があったとも後で言っている。まさに自信と誇りに満ちたリズムの完成である。

その後の録音はBass/Tsuyoshiの録音にGuitar/YU:ZIのバッキングテイクを重ねる同時進行で行われる。
Guitarはブース内で録り、終始リラックスしていたのは横で見ていても楽しみであった。

多少の難を残しつつも何とかBass録りを終え、Guitar,Keyboardへと次々と音が重ねられていく。
自分のこの時の失敗をここで言うならば、途中に割ってでも歌録りをするべきだった。収録曲数を考えてもそれが妥当だったし、当たり前でもあった。そして何よりも歌声というのは「生」のものである。その日その日のコンディションも違うし、ましてや花粉症という最大の苦難の中で録音しなければならなかったのである。
結果、楽器陣の録りの欲と希望によりオケが完パケするまで歌録りが始まることは無かった。

レコーディングは主に週末の土曜・日曜をかけて毎週行われ、4月の終わりからようやく歌の録音が始まる。
録り始めてやはり花粉症のため鼻声になってしまったことから普段は一切飲まない薬も服用したりと非常に困難の中行われた。そして自分の仕事も週末だけ休むことなど出来ない職柄であり、歌録りの調整が大変だった。
テイクが早いとかは関係なく、自分は録ってから繰り返し聴きこんでそのテイクにジャッジをしたい方だが、そのやり方自体も出来なかったし、許されない状況でもあった。自分がこの時点で感じたのはメンバーの「歌」に対する意識の無さが本当に辛かった。それぞれが自分の役割を終えて途方感でいるのはいいが、ピリピリとした緊張感を持つ自分には腹の虫の居所が悪かった。ジャストなメロ、音程に対しても一フレーズ録るとメンバーに口を出され、表現するしないのレベルでなく「音階に当てはめていく」作業のような録音であった。特にMAKIの音程に対する発言は執拗でもあった。個人的な発言でもっと言うならば「言葉」をもっと選んで頂きたい。彼女の元々の性格なのだし、正直ここで敢えて言うことでも無いが、「感情的・直情的」発言が多すぎる。唯でさえレコーディングという非常に神経質に皆なっている場であるからこそ。
自分も明らかに喉の不調、追い詰められたこの時に、MAKIへこれはBANDのレコーディングであり、「お前のソロアルバムを作っているのではない」と何度声に出してしまおうかと思っては噛み潰していた。ここで露呈するならば、BANDの音楽の理論的支柱はMAKIであり、感覚的・発想的な音楽の取り組み姿勢は紛れも無く自分であり、その部分を互いに認め合えなかったのは最大の亀裂でもあった。時間にして自分も記憶自体が薄れてしまったが、歌そのものの録音にかけた時間などわずかなものだったと思う。

「何でこんなに急がなければならないのだろう?」

確かに実費の費用がかさむのは分かっていたし、他のメンバーにも迷惑であるのは承知だ。だが、かけるべき所に時間をかけないで良いものなど作れない。メンバーにその意識が無かったことが何よりも残念だったし、辛かった。正直そのMAKIとの言い合いから「辞めてしまいたい」自分もいた。それよりも残されたメンバーへの思い、そして辞めていったメンバーの気持ちを汲んでもここで辞める訳にはいかない。自分の中でも非常に葛藤・怒りの念の方が多分に占めたレコーディングだったが、この時点で「次回作こそは」とリヴェンジに炎を燃やす自分もいたのは確かである。

そして、後日談での中で自分も知ったのだが既にこの時点でDiechan,YU:ZI,TsuyoshiもMAKIに対して「確執」を持っていたというのは抗えない事実であった。
レコーディングを通して人間性の奥まで見たような場面でもあった。

「自分の理想のためにその結果だけを強く求める者」
「今出来る時点での実力の限りを尽くた結果に達成感を持つ者」
「とにかくこの場から逃げたかった者」
「やることを終え、自分の一つのピークに燃え尽きた者」
「自分の表現をやり切れずに悔しさだけが残った者」

上記は自分から見た心情と言える。
誰が誰の心情とまでは書かないが。

ここまで築いた「絆」というものが、今まさに壊れていく様であった。
誰も、どうすることも出来ずに。



歌録りの最終日、Diechanが筆頭に声をかけたBAND仲間達を交えて多勢コーラス録音を収録。自分には悔しさしか残らない録音だったが、こうした仲間との触れ合いがまた気持ちを豊かにしてくれた。

最後にアルバム冒頭に収録されるS.E"GROUND ZERO"の音のサンプルの吹き込み作業を終えてアルバム全収録曲の録音を終える。

Mixは大西さんのツテもあり「聖飢魔Ⅱ」のアルバムのMixを担った内田さんにお願いすることが決まっていたため、DiechanのDrum音像なんてまさにライデンの音になったり(笑)バランスのとれた重厚な音像の中、Keyboardがやたらにフューチャーされたような(悪い意味ではなくて)ある意味プログレな印象すらあったが、任せっきりのMixのため本当に細かい部分での直しは一切告げてない。自分の歌に対しては「生々しさ」だけを告げた。それによって歌そのものの「下手さ」を幾ら露呈しようとも、曲げたくは無かった。通常、歌には「リヴァーブ」という残響を呈したエフェクト(効果)を付け加える。しかし同時に「誤魔化す」のも可能であるという位置付けもできる。バックの音像に同化させることでその効果を狙う、それも一つのやり方だし、技術・テクニックだ。しかし、言葉と感情を伝える表現としてのこのBANDの「歌」というものは、まさに「喜怒哀楽」を表現として目指していた自分のスタンスは絶対に「生」の質感だったし、譲れないものであった。正直、この完成Mixに対して自分はあまりいい意見は持てない。
大したやり取りもなく仕上げられたこの時間に追われるだけのレコーディングに自分はこの時点で気持ちは腐り気味でもあった。
マスタリング作業も個人的には出席も出来ず、自分が責任を持って関わったのは「歌」の吹き込みだけであったと記憶する。

ただ、悔しさがあるからこそ次がある。自分はその気持ちだけは一生表現の中で考えていくつもりだし、止めない。


かくして、アルバムジャケットもマリコ女史により素晴らしい(笑)アートワークがなされ、完成されていく。
ここまででやっとアルバムの完成へと至ったといえる。

すぐにその後の6月よりLIVE活動へ入っていくため、リハも開始されLIVEでの新曲のアレンジや構成も含め時間を費やしていく。Tsuyoshiのキャラクターの質の良さをもっとアピールし、MC番長へと叩き出したり、演奏陣の固めどころ決め、挙句には衣装まで話し合われ「BAND」の見せ方もここに来てやっと全体での表現へと変わっていく。

長きに渡るフラストレーションの発散。
自分はまさに悔しさのリヴェンジへ。

帰るべき場所へ。メンバー皆が待ち焦がれていた。