Sunday, July 30, 2006

RocketQueen HISTORY(TRUE) 2005 / "Album[GROUND ZERO] Recording sessions part.1"













2004年の末の怒涛の事態を乗り越えて、新たな年になりRocketQueenにとってBANDの飛躍となるべき年が来た。
自分達が考えたのは必然的に音源製作を予定、"YU:ZI加入後のRocketQueen"の姿のアピールでもある。
既に今までの活動の中で演奏されてきた楽曲に加え、新曲製作も始め、アルバム制作へと活動を開始する。

ここで音源を発表するなら自主制作という形こそ変わらないが、店頭販売に対応できるCDという形のリリースを目的としていた。そこでDiechanが吉祥寺や目黒などのMETALシーンとの交流の中からBlack-listed Recordsとの関わりがあり、大西さんとの出会いがある。この時点でのリリースのタイミングではこのproductionからの発売はRocketQueenとして適切であったと思う。
実際BAND自体の活動は自分達に揺るぎのない気持ちがあったため「事務所」という部分では利用はせず、あくまで販売に関してのサポートを依頼した。
そしてやりたい放題(笑)の自分達の活動から当然音源製作も同様に好き放題・我がまま放題である。その中での実際形にするべき「現実的な」部分の話し合い、製作へのタッグという形でBANDと共に歩んでいく。この時点で発売時期、収録曲数の決定、アルバムアートワークの依頼など来たるべき半年後の発表に向けてBANDを運営していく話し合いであった。そして新曲の製作も話し合われ、各メンバーが個人で担う担当決めも行われた。

そう、音楽活動をする中でこうした通るべき「知らなければならない」事情の勉強でもあった。自分でも痛感したのはBANDの難しさへの思いも確かにあった。この5人のメンバーのリンクし合う形でのせめぎ合いも確かにある。しかしそれこそが本来BANDであり、楽しみの一つであることに変わりは無い。自分はそれに「従う」し、自分の言うべき意見は伝える。当然の権利だった。

そうしたセッションで合間を縫い、2005年初LIVEは2.13の北浦和Ayers。相変わらずのREAL-TENSIONとのジョイントでの熱い夜。
聖飢魔Ⅱの「有害ロック」のカバー等も携え、自分は必殺・日本刀も飛び出し(笑)YOSSYとダブルで煽るまさにハイテンションなLIVEだった。しかし、終了後にメンバーより「曲間の繋ぎが悪い」「MCしっかりと考えて決めないとダメだ」など散々なくらいに自分に文句集中。自分はLIVEはあくまでLIVEであるので、その時の気分でしか、客とレスポンスを取るつもりもなければ、語る気すらない。
でも、もうその自分のスタンスは通用しない。BANDとしての「方向性」に合わせなければLIVEが成立しないところまで来ていた。

話し合いの結果、LIVE MCにおいて語るべき内容は自分が責任を持つが、それ以外の定番の決まった告知等はBassのTsuyoshiが彼のシュールな人間性(笑)を生かして、天然ノリで担当していく流れが面白いとのことから決定していく。新曲製作プラス、LIVEのリハーサルと非常に多忙を極めた時期でもあった。

その中で生まれたMAKI作曲の"COCOON" "BLACK STARS HEAVEN" YU:ZI作曲の"GLORY EYES" DiechanのGuitarリフから発生した"JUST BRING IT"等続々と顔ぶれを揃えていく。
元々"COCOON"はMAKIがBANDにバラード曲をという部分からスタートしている。
これ以前より数曲バラード仕様の楽曲は提示されてもきた。しかし当時のBANDは「SPEED IS JUSTICE」、「暴走METAL」の側面からそれらが採用されることはなかった。
だが新しくYU:ZIがラインナップに加わりメンバーの意識の変化や、ハッキリした形でのBANDのSOUND変化を伝える一つの手段であると自分は思う。
実際作るなら完璧さを目指し、「捨て曲などいらない」というBANDのスタンスが楽曲のランクを最高峰にする一つの境界線でもあった。

"COCOON"は何よりも彼女のルーツでもあるPianoという楽器の使用。そこから初期イメージとして発生した「雨」「涙」「悲しみ」などのモチーフを受け取り、自分は壮大な「嘆きの海へ」という重きテーマを含む短編小説まで発展させた「愛情と死と恍惚」、それらが全てのイメージを繋げた。
この小説版"COCOON"は自作の詩集内に収録され、楽曲が示す以上の情景を広げる手段となっていった。

"GLORY EYES"の生まれた背景はそもそもYU:ZI作曲の楽曲がアルバムに必要不可欠であること、もしくは新しい「血」の導入からアルバムトップを飾る1曲目という最大の任務の依頼からスタートした。結果、1曲目という形の楽曲収録は制作の段階で煮詰まったこともあり外され、「好きに書いて」という彼の自由な発想からの誕生であった。しかし彼自身の立場にしても曲を作りためるスタイルではないこと、ましてや加入間もない段階でのアルバムへの楽曲制作は大きなプレッシャーでもあったと思う。曲を作るのに「自分の思い」や「表現」への挑戦が大きな負担でもあったのだ。しかし、その負担を乗り越えて作るからこそ「思い」は強く、輝きを誇る。「自信」というものを携えて。
メロディーの指定もあったが、サビの部分以外(と、記憶している)は自分の旋律に変えさせて頂いた。自分にも自分なりの伝えたい「思い」を言葉にした旋律との格闘であったが、結果何よりも救われた感覚があるのはYU:ZIの生活環境でもあり、彼の持ち味とも言うべき「BLUE」というカラーリングの色彩が詞に影響していること。その煌きのある情景が「哀愁」を呼びよせ、この時点で描いた自分の等身大の年齢も意識した「大人の魅力」も一つのテーマであったと思う。過去に自分はハッキリと「日常を詞にして歌うつもりは無い」と発言しているが、ここで歌ったのは紛れも無い「日常」を意識している。それこそが自分自身の挑戦でもあったし、課題・葛藤でもあった。

"JUST BRING IT"はこのアルバムセッションに入る際にBlack-listed Recordsの大西さんから頂いた「もう一つの」話。「コンピレーションアルバム(オムニバス形式の)の参加」であった。時期が非常にタイミングと合致していたためBAND側は承諾。もちろん「行き当たりバッタリ」(笑)な自分達にとって当たり前の選択でもあり、BANDの知名度を広げる手段としても意味合いは大きい。Diechanがその以前から新曲製作に入っており、彼のMETALとしての表現の集大成ともいうべきメインリフからメンバーが広げ、実際ジャムから完成へと至る。イントロKeyboardやGuitar solo後の合唱などMAKIの手腕によるアレンジもより楽曲の完成度を高めた。歌詞はこの邪悪なイメージから「宗教」「闘争心」「魔力」など、あくまでもヴァイオレンスというのがキーワードである。確実にいえるのは自分の十八番である「闇」の露呈、この詞から誰もが感じる「死」というイメージよりも自分が伝えるべきは「闘って死ね」というスタイルの提示。その屈強な曲のパワーがみなぎる作品であった。BAND持ち曲中、最速にて最長・最難易度を誇るまさに「賭け」というべき曲であった。

そして最後に"BLACK STARS HEAVEN"だが、BAND内のジャムで大まかに出来上がる。もともとMAKIがコード進行を提示、ザックリとしたアメリカンハードの重さのイントロはDiechanが提示。彼のこのセンスからBON JOVIテイストな「皆が歌える」が最大のテーマである。ハッキリ言ってしまえば自分の歌詞を含む旋律は非常に「聴かせる」度合いが高い。そこから離れ、あくまでも「観客」を主軸においた外へのイメージの開放。自分個人として、この曲こそが新生RocketQueenの形を如実に表しているようにも思える。そしてこのアルバムの次回作となる筈だった作品に向けての。
とにかくサビ歌詞の部分にメンバー全員の意見が入り、完成まで悩みが尽きることは無かった。個人それぞれの言葉・単語に寄せる思いはバラバラだ。それを全てクリアした上での完成。自分には使用されることのない言葉から違和感も少なからずあったが、歌い継ぐことでの解消に何の問題は無かった。


曲を選定していく中、この時点で決定していたのは演奏されていた
"STAND ALONE" "PRIDE" "PROVIDENCE" "GO AHEAD" "DIE FOR YOU"の5曲に加えて、
"COCOON" "GLORY EYES" "BLACK STARS HEAVEN"の3曲。
そして不在のままの1曲目としてリーダーDiechanがYU:ZI ver.で"QUEENBEE ROCKET"にしようということでアルバムイントロダクションとなるS.E的な曲を作り加えること。そしてMAKIよりアルバムの最後をしめる"GO AHEAD"へ繋ぐ曲として"QUEENBEE ROCKET"のサビコーラスのバラードver.が話し合いの中で決定される。そしてアルバムS.Eは自分がこのアルバム全体を見越した形で自分のエッセンス・インダストリアルミュージックから完成形となるが、各メンバーからは「突然ドンとかいって」(笑)「潰れた音質のビートが...」とかあくまでも印象だけでの意見の取りまとめたものである。自分は「戦場に向かう精神」を主軸にスリリングな音像を目指した。

かくして最初から決めていたタイトル、「GROUND ZERO」となるRocketQueenのアルバムレコーディングが開始されることとなる。

2005年3月末より開始となるが、その直前にアルバムジャケット内のメンバー写真の撮影があり、花粉症引っかかりまくった自分にとって「地獄」の撮影でもあった。
とにもかくにもこの写真はBANDの宣材にも使用され財産にもなった。
カメラマン氏、感謝申し上げます。

Monday, July 24, 2006

RocketQueen HISTORY(TRUE) 2004 / "Nobody's Perfect"


2004年03月、Turboの脱退が決定し、活動再開の手立てとして再びGuitarist探しへ。

一体何人オーディションしただろう?
音を出さなくても会うだけの方を含めて10数人いた気がする。
その中にRocket最終・最高のGuitarのYU:ZIも含まれていた。
ちなみにこの時彼は「とある事情」で合流せず。実際それどころではなくなってしまったというのが正しい。
確か夏前?5・6月だったと記憶している。まず初顔合わせが新宿の飲み屋にメンバー全員集合で対談。最初から「酒」かいっ(笑)と突っ込みたくもなるが、初対面はただただ好印象。後日スタジオにてフライングVを携えてやってきた彼は、"MESSIAH"や"PRIDE"など数曲を合わせた。この時点で音・テク共に問題なし。ていうか、自分は絶対彼で決まりだと思っていた。
しかし、残念な事にこの時点では合流できなかったが、個人的にもいいGuitaristであった印象もあり、非常に信頼を寄せられる人間性にも好印象に持っていたため、単純に「音楽を好きないい仲間」の一人として連絡は取っていた。


それからオーディションを再開した中でShinjiがとりあえず決まり、リハを重ねていく。
最初の音出しから自分はちょっと「キツイな」と思ってはいたが、これ以上人選を続ける手立てがなくなりつつあり、全員の意見として「まぁ、いいか」的判断で採用に踏み切った。

しかし、リハを重ねていくのだが、BANDのレベルに彼がいつまでも追いつけないでいた。
そんな状況下ではあったのだが、「見切り発進」的にLIVEの予定が組まれていく。ここまで活動していると周りが黙って時間をくれない。「次のLIVEは?」とハコ側から引っ切り無しに誘いがきていたのだ。


「とりあえず問題は山積みだがとにかくやってみよう」
2004年09月11日に吉祥寺CRESCENDOにて再復活公演を行なう。

この時期の新曲として、自分は"DIE FOR YOU"を提供。ここでようやくBANDで採用曲となる。
確か最初のBANDアレンジは自分以外のメンバーによるそれはそれはヤバイ(笑)コーラスで始まるもので、この時期を前後してコーラスを全員参加でやるといった趣向も見せていく。
他にも自分は"DESTINY"というミドルの曲も出すが特に合わせずそのまま消える(笑)
LIVEに向け、聖飢魔Ⅱの「SAVE YOUR SOUL」のカバーなども飛び出した。

それぞれが、思いたっぷりに迎えたLIVEだったが、


「待っていた方に申し訳なかった。」


自分も含め各メンバーも感じていた違和感。確かに結果として不安定なままでのLIVE敢行、加入したShinjiも自分自身のテクニックに対する自信が持てないままの演奏に終了後、「もう限界です」と言い残して逃走。

またしても「離脱」。


ドン底だった。

自分はShinjiの加入に対し、正直彼にRocketQueenのGuitaristが務まるのか不安は滲ませたままであったが、彼自身からも「頑張ります」との言動や積極的にどうしたらよいか?と直々に教えをメンバーに請うこともあり、正直頑張って成長し、応えて欲しくもあった。
自分達は数々のGuitaristを見てきたことから、このBANDに加入させることの難しさがある。
BANDのGuitaristとは本来「自分のBAND」的志向が強く、加入には向かない率が高いとされる。
実際、「今までのマテリアルを捨てて新たに」という形なら加入という方もいた。それだけ難しいと判断したBAND側が、逆に「育てていく」というやり方で加入を認めた。
そういう事情があったのだ。しかしたった1本のLIVEから彼もBAND側との溝と壁の高さに迷いが出たのであろう、自ら脱退の意思を告げられる。

しかもその後に予定されていたLIVEに構いもせずに。

この時期既に年末10月、11月、12月と3本のLIVEはブッキングが組まれてしまっていた。
BAND側としてもう止まれない状況下にいる。激しい怒り、途方感はあったが、呆れて愚痴るヒマなどなく、即刻サポートでいいとGuitaristに片っ端から連絡をとる。そこでなんと奇跡的にYU:ZIと連絡が繋がり、彼が参加することになった。

「今度RocketQueenが復活する時は必ず見に行きますよ」

YU:ZIが以前に連絡を取った際に言っていた言葉である。しかし、まさかその見に行く筈のLIVEに自分がRocketQueenのGuitaristとしてLIVEに出演するとは、本人が一番驚いていたことであろう。


スタジオで音出した瞬間、彼の加入が決まったようなものだった。

D氏:「前に合わせた時より上手くなってるよね?」
Y氏:「ずっとファンだったから家でも弾き続けてたんですよ」
全員:「決まりだね」

実際、彼の環境も整い、晴れて正式な形としての加入へ。この出会いは、本当に夢のように「音楽」が繋げてくれた美しい出会いであったと今も思う。自分が「BANDは人なんだ」と確信し続けたことが現実となったものだった。

彼も彼で、最初のセッション後もRocketQueenのファンでいてくれたのも大きい。こんな両思いの形を本当に待ち望んでいたのだ。それ故に「喜び」というのがメンバー全員の心から湧いた。



「RocketQueen至上最高のGuitarist。とうとう参戦である。」



組まれていた年末3本のLIVEの最初、10.23は僕の地元埼玉・北浦和Ayers。
YU:ZIは参加してわずか1・2週間でLIVE(笑)しかしLIVEにおいて既に以前からRocketQueenの一員であるかのように驚くほど「自然」だった。彼のGuitar soloに背筋が震えるほどのの快楽を得た時もある程に。

関係はないが、この日まさに当日新潟であの「地震」があり多大な被害に見舞われた。今もなお復旧に大変だろうと思うと非常に心が痛む。

11.13池袋CYBER。個人的にSOLO時代に度々、DARKなBANDのファンとしてよく見に行ってたものだ。そこに立てる自分が非常に嬉しくもあり、「楽しもう」という姿勢にもなれた。このイベントに誘ってくれた荊(イバラ)さんには非常に感謝に絶えない。以前、Turbo脱退でキャンセルしてしまったイベントのことも含め本当に申し訳なさとありがたさを思っている。

そしてこの月はもう1本11.27に沼袋SANCTUARYというMETALの聖地と看板を掲げたハコにも出演。
個人的意見で悪いが、ダメですね、ココ。何よりもスタッフが出演者に対して全然対応がなってない。
気持ちよく演奏させてもらえる環境では全くなかった。リハでも自分が、「フロントの返しをDrumの3点(ハイハット・スネア・バスドラ)強く返してください」と言ったにも関わらず、再び演奏を開始してもいつまで経っても改善されなく自分は歌うのを止めた。メンバーも何だよ?と言って止まるが、再度自分が同じようにP.Aの方に伝えるとそれはそれは嫌ーな顔しやがった。その時点でもうその1日は気分悪かったね。ていうか、このクソ不便な立地条件の場所までわざわざ来て、何でこんななめられた対応されなきゃならないんだ?とブチ切れたまま本番を迎える。演奏開始すると自分はステージ前方へ駆け出して行ったが、モニター蹴り落としてやった。ふざけるなと。あれだけリハで打ち合わせたバランスが全くもって生かされていない。本当に腹立たしい。そんな怒りに満ちたステージングが、逆に観客からは気迫に満ちているかのように映ったらしく、それなりに盛り上がっていたと思う。個人的には評価の低いスペースです。

この怒濤のような1年を締めくくるに相応しく、12.25の吉祥寺CRESCENDO。
MAKIの新曲"COCOON"や確信犯的必殺の"地獄の皇太子"のカバーにより会場もかなりヒートアップしたと思う。YU:ZI加入間も無く最高のパフォーマンスとともにこの年をしめられたことに感慨深い。
本来のハイパーテンションなBANDの勢いが出てきたといえる。


これぞ自信をもって言える"We're RocketQueen"のコール。
最高の形でRocketQueenは飛翔するのだ。

この年を振り返るにあたり、「最低」の気分から「最高」の気分までメンバー全員が体験した。
それが皆の心を強く繋がりを持てた結果であるとも思える。

自分がこのBANDが「最高」と思えるのは、やはり「絆」だったと考えている。

そして、いざ激動の年。"RocketQueenの年"でもある"2005年"へ。

Tuesday, July 18, 2006

RocketQueen HISTORY(TRUE) 2002-2003,2004 / "Burning From The Inside"














MAKIが加入したことで、それまでのGuitar中心の楽曲アレンジからKeyboardを呈したBAND SOUNDの変換を進めていく。当然Guitaristの度重なるトラブルから、今後参加させるならGuitarは1人でと暗黙の了解がメンバー間にもあった。そしてKeyboardの音圧を出した分厚さと、その変幻自在のヴァラエティーある音色に「煌びやかさ」がBANDに加わった。


そうしたアレンジとGuitaristオーディションを日々時間を費やしながら復活の日を待っていた。

しかし来る人来る人皆、「個人」としては上級者であったが、BANDで合わせると音にそぐわないというか、馴染むGuitaristは現れなかったため、痺れを切らした自分達は「Tomokiクン、暇ならおいでよ」(笑)って...クビにしていながら来いよとは本当に無神経だったと自分にも呆れるが、少し腐り気味だったのもこの時期は事実であった。でも彼も彼でまた来るし(笑)一緒にBANDに合うメンバー審査を彼にもお願いしたという経緯もある。
その中でもKeyboardを加えた音はメンバーにとっても一度客観視するべきだと自分は感じたため、セッションの形を記録するために簡単なデモを録音するべくスタジオ作業へと移る。
目的は未だ決まらない正式なGuitaristへの「音の紹介状」の意味合いが当初の狙いでもあった。そして何よりも大きく変貌したRocketQueenの姿をメンバー自身も期待感をもって意欲的に聴いてみたい気持ちの現れでもあった。低予算・一発録りのつもりが、随分この後大変なレコーディング作業になるとはこの時誰も気がつかなかったのである。


2002年の夏、DiechanのDrum録りから開始。スタジオ3時間をおさえて、マイク立て計8本(最終的に2MIXへ変換)設置。

Diechan録り予定曲>
1.QUEENBEE ROCKET
2.誰がために鐘は鳴る
3.DEVILCHILD
4.DEADMAN SHOW
5.DREAMS
6.君をのせて
7.MESSIAH
8.NO EMOTION(未発表)
9.HIGHWAY GANG

って9曲....彼、Diechanはやりましたよ。たった3時間で。呆れるくらいな早さで。

もし終わらなくて時間追加しようかなんて心配も吹き飛ばし、とっとと早く終わって二人で飲みに行ったり(笑)彼は非常に頭脳派であり肉体派でもあり素質、センスに恵まれている。「自分」という自覚の強さはやはりリーダー気質である。本人は「練習なんかしてない」とはいうが陰の努力と集中力の賜物だと自分は横で見ていて十分過ぎるほど分かっていた。「努力家」という形容が表では公表していなかったが、彼には十分それに値する形容であると思う。


しかし自分はここからが地獄だった。


Guitar,Bass,Vocalと全て自宅の機材において録音していった。それぞれの可能な時間が許す限り何十時間という「こだわり」が招いた終わることなき録音。今をもってしても思い出したくもない。

ちなみにGuitarはTomokiが弾いて入れてもらいました。Diechanが「自分の(Tomokiの)曲だし、自分で弾くのが当たり前」(笑)ま、確かにそうだ(笑)

休みがまるで合わなく、スタジオにも一緒に入れないKeyboardの録音はMAKIに自宅で単独録音してもらい、それをMIXで組み合わせるという手法?テク?で行われた。タイミングで地獄を数回見た。

メンバーの間であがったMIXを聴き、やり取りすること数回。自分でも1曲につき100回程はMIXした気がする。結果、音質こそ酷いものだが、バランスは外していない。細かく言えば音が潰れて聞こえないものもあるが、あの低予算でこれ程のクオリティーはありえない完成度を誇っている。


アルバムジャケット、打ち込んだETERNAL MELODYを追加し堂々完成。ここまでのモノが出来、正直発売もしたかったが、「君をのせて」のカバー曲の著作権の問題やCD-R、全て手作りの安っぽさ全快のため断念。
この無料配布を実践すべく、以前ホームグラウンドと化してた池袋Admで復活LIVE敢行。
MAKI加入後初のLIVEである。
度重なるGuitarist脱退、今なおも続くオーディション、すでに前回のLIVEから半年もの時間が経過している。自分達も焦る気持ちもあったが、それ以上にこの1st(DEMO)Album「the QUUENBEE」の完成によりステージへの渇望が強かった。

8.10池袋Adm「the QUEENBEE」無量配布LIVE
当然アルバム同様にSE~QUEENBEE ROCKETから演奏。実際にはここで初披露であったのだ。
Diechanもこの時期より先に吉祥寺METAL ZONEの住人であり、LIVEにおける「見せ方」というものに少しづつ拘りが現れてきていた。特に彼もドラミングにおけるパフォーマンスも然り、曲の合間の繋ぎ等も決めてLIVEに望んでいった。LIVE会場を販売の場とし、とにかく裁きに裁いた。GuitarはもちろんTomokiに再登場して頂き、いつものように弾き倒して頂いた。脱退後、自ら数多くのセッションの場で弾いたり、プロのバック等の経験などにより随分と見違えていた。

完全な新曲ではないが、自分の書いた"Syncronicity"というバラードを演奏した。
元々打ち込みのシンセ等多用した音にBAND SOUNDでは少々無理もあったとされる。
自分の曲は当時よりBANDには提供してはいたが受け入れも悪く、自分でもあまりらしくないかなって半分は思いつつも出してはいた。まだ自分のSOLOのイメージをまだ少し引きずってはいたと思う。しかし「こういう曲が書きたい」っていうイメージはすごくアタマの中で操作ができるようにもなった。同時に何個の楽器がアタマの中で鳴り響き、音を紡いでいく。それを実際に音に変換する作業がなかなか上手くいかないのだが。

アルバムは主に宣伝・プロモーション用に都内はもちろん、HPを見たマニア(笑)から日本全国各所まで発送した。雑誌にも一部取り上げられ、「やばい...ちょっとメジャーじゃん」(笑)とか思ったり。

そんなドサクサの中、オーディションからGuitar「鬼才」Turboが決定した。
彼はTHRASH METALやDEATH METALに強く影響下にあるGuitarist。その素晴らしいバッキングのセンスは歴代でもトップクラスだと自分は思う。刻みの繊細さが常人からかけ離れてる(笑)それと音に対する「こだわり」も然りだった。彼もほぼマルチプレーヤーだが、彼のその類いまれなるセンスがBANDに大きな効果をもたらす。

この時点ではまだLIVEには対応出来ないため、Turboとはリハーサルを重ねていき、10.13の池袋AdmのLIVEはTomokiに頼み出演に繋げる。
前回同様にアルバムプロモーションの意味合いが強い内容であったが、自分達は単純に楽しくやるだけであった(笑)
温かい来客に恵まれたのもそうだし、共演にARCADIA(Vocal:KOTAKE)の面々とセッションも交わし自分は火吹きを行なったり。相変わらずのやりたい放題ぶりに誰もが安心したんじゃないかと(笑)

こうして本当に忙しく激動だった2002年は終わる。
Turboとの新しいマテリアル作りにじっくりとリハーサルを重ねていった時期でもあり、それだけに費やしていた時期でもあった。

当初から次回に復活する時はBANDの看板といえる「新曲」を携えてやる。それだけに皆集中していたのだった。
加入時にTurboからも思いっきりTHRASH,DEATH METALな楽曲を提供され、自分の中でもCRADLE OF FILTHなどよく聴いていたこともあり、自分はハイを生かしたVocalスタイルとし、以前より交流もあったHINOTOにロウを生かしたVocalスタイルでの参加要請を行い、なんと「W・Vocal」スタイルで更なる進化を遂げようとしていた。アイデアとしては面白いのだが、HINOTOが多忙により確実な参加が難しいことなどから話は立ち消えてしまう。


それから、RocketQueen第2章に相応しいとされる代表曲"STAND ALONE" "PRIDE"の2曲が完成していく。"STAND ALONE"はDiechanがリフをメインで思いついたことから広がり、そこからTurboと打ち合わせて完成に至った曲。大まかな曲の構成は形として完成されてはいたけど、この曲での各メンバーの貢献度はBANDの曲の中でも随一だと今でも思う。
どのメンバーもその当時の自分のできることを詰め込んだ感が印象深い。自分もBANDの曲中で好きな曲上位でもある。
"PRIDE"はMAKIがメインリフとメロを書いてきた所から広げた曲。前述であるが、DiechanもMAKIも吉祥寺Crescendo,目黒LIVE STATIONあたりのMETAL界隈入りするようになり、交流を広げていき、また楽曲やパフォーマンスに至るまで自分のBAND "RocketQueen"として非常にこだわりが強くなっていた時期だと思う。
実際、そのこだわりから各メンバーへ求めるモノも高いレベルとなり、BAND内での衝突も少しはあった。MAKIに関しての経歴は詳しくは知らないが、POP BANDの経験や自分なりのVocalist像があり「歌・メロディー」に関しての求めるモノはレベルとして高いと思う。
ただ、今でこそ言うが、最終的に各個人のパートであり、他のパートが操作をするべきでは自分は「ない」と思う。Vocal,Guitar,Bass,Keyboard,Drumsと、それぞれの各個性の集まりの中で音が構成されているのだから。それではBANDとしての機能が狂ってしまう。
それぞれに「言い方」も若い気性から全然マナーも容赦もない。自分が言った言葉の影響を考えもせず使うことも度々だった。根に持っているわけではないが、自分でさえ否定された表現に対する「暴言」に近い言葉の数々は今も覚えている。しかし、BANDを大きくするために全員が一生懸命だったし、その中での「ひしめき合い」でもあった。成長し、進化をたどる中で必要な衝突の数々だったと、今は思える。

2003.4.05吉祥寺CRESCENDOでの大復活。ここまでに実に入念なリハーサルを重ねたことも自分達に「自信」をもたらしていたが、何よりもDiechanが交流を深めた仲間達も大集合し、ここまで僅かな活動期間からこのスペースを満員にしていたことは非常に誇らしくもあった。
GuitarのTurboの一閃とも言える明らかに「生まれ変わった」RocketQueenの迫力の音。
Tsuyoshi等の男気溢れるコーラス。さらに磨き上げたDiechanのドラミング、楽曲の幅や音そのものの印象をガラリと変えたMAKIの繊細なアレンジ。自分はとにかくこの「熱さ」を誇る自分達の音というものを皆に届けるべく、気合いを入れて叫び、煽り、パフォーマンスを続けた。
非常に「剛直」になったともされるが、リリカルな歌詞は健在し、より自分の中では詩的表現へと突き進んでいくこととなった。
追伸だが、Tomokiの"DEVILCHILD"がサビのメロを変更し、"NEO-DEVILCHILD"としてBLACK METALのような曲に様変わりしたアレンジで披露もされる。

LIVEも成功に終わり、新曲のレコーディングへと入る。
大塚PENTAスタジオにて、METAL界隈の名のあるエンジニアとの録音作業。たった1日での製作期間。
新曲としてシングル「STAND ALONE/PRIDE」を発表。店頭にも実際販売され、正真正銘・世に出た最初の音源である。自分でも思ったが「こんなに簡単に売れるんだな」って印象はもったかな。だからちゃんとした残るものを作らないとなって。どちらの楽曲もそのクオリティの高さからA面扱い(1曲目扱い)ってことでタイトルがそうなった。事実この手の良質な曲をやってるBANDなんて悪いが見回しても居なかったハズだし。絶対的自信がこの曲にはあった。歌に関しては個人的に全然ダメだけど。大事に聴いてもらってる人には悪いけど、歌の表情が嫌い。表現力と歌に対する基本がなってない。

それに伴い吉祥寺をホームとし、LIVEを重ねていく。Tsuyoshiの手グセのようなスラップを原案・広げ形にした"PROVIDENCE"、LIVEでは演奏はされず、未発表曲であったが、自分の"PERFECT WORLD"やMAKIの"DENIAL ETERNITY"等新曲のセッションも続けられていた。

6.28吉祥寺CRESCENDOでは再び鮮烈にパフォーマンスが出来、会場にてシングルの販売も行なわれた。
7.05北浦和Ayers、それ以後も様々な場所へと出向き音源を売り歩き、新たなファンの獲得に活動を続けた。
8.02新宿ANTIKNOCKは音環境が良く、レギュラー出演を申し込むが店の色のBANDでないこともあり、断られてもいた。
9.07吉祥寺CRESCENDOではあの"DREAMS"を現在のメンバーでアレンジ。爽やかさを抑えて少しへヴィなイントロに差し替えて演奏したが、来客には不評であったと聞いている。
10.18恵比寿GUILTYではTomokiが加入していたBRIDGE OF TEARSとも共演。会場作りは上級なのだが、自分などは「METAL復古主義」的なこのイベントに嫌気がさしていた。自分は決してMETALという音楽に対してもういい印象など持ってはいない。すでに過去のブームの音だという印象も強い。しかし、このRocketQueenというBANDは現代の音を鳴らしていると思うからこそ出来るのである。そこだけに固執しているBAND達は自分の目には何の興味の対象にもならなかった。
11.03目黒LIVE STATIONへ出演。これだけMETALのイベントに出てはきたが、このハコに出るのは初である。確かにやりやすい音環境ではあると思う。しかし、通常ブッキングで出演の機会がなかったためスタジオの企画LIVEにねじ込み、あのBIBLE BLACKがそのスタジオで見かけたため、半ば強引に共演に引きずり込み(笑)出演したのだった。
他の共演にガキんちょ達の浮かれたLIVEに機嫌も悪く(笑)出演後も楽屋で騒いでいる姿にDiechanが一喝。
「うるっせェ~んだよォ!出てけッこのバカ!」

しかし自分達がステージへと入ると以外に若いコ達も食い入るように聴いてくれたり、反応はよかった印象がある。
このLIVEをステージ袖でみた荊のメンバーが自分達のイベントに今度出て欲しいと出演依頼があり、これらの活動が無駄でないことを心から知る。

年内約月1回のペースでLIVEを行っていたが、自分は働きながらの専門学校通学中、他でもメンバーそれぞれ働きながらのスケジュールで限界もあった気がする。それでもその1本のLIVEに賭ける意気込みも大きかった。動員の難しさに関しても皆シロートだったし、情けないものもあった。他のメンバーがこの時期どう思ってたかは知らないのだが。

2003年ラストとなる11.22の吉祥寺CRESCENDOでのLIVE。MAKI,Turboという才能に溢れたメンバーの加入により、それまでの活動から飛躍を見せたこの2003年という年は確かな手ごたえとなる活動期間であったとされる。後にも先にもこの期間がなければRocketQueenというBANDは存在しないのである。それほどに強烈な個性を持ったメンバーが集まったのだ。
この頃より、ラストの大団円をつとめる曲として "MESSIAH"から"GO AHEAD"へ形は違えど演奏され始めている。

もっとBANDをアピールしたいというプロモーションのために、音源製作「無料配布」をまたここで敢行。代表曲「QUEENBEE ROCKET」が録音された。新メンバーによる音源が「STAND ALONE/PRIDE」のシングルしかないことも考え、しかも配布用としてもそれなりのクオリティが欲しいという理由があった。
自分は録音に関していつもそうだが「時間がない」ということ。金銭面的ものもあるが、各パートの配慮の欠けるのも事実。それでもそれぞれがそれぞれに不満を振り切って頑張っていた。BANDが「難しいもの」っていうのはこういう部分ではホントに思う。精神面での葛藤がハンパじゃない。それもこだわればこだわる程に。


配布用シングルが完成し、年末の会場や多方面にDiechan,MAKIなどが中心に配って回っていく。自分も地元周りを中心に各方面に自分の手で配って回っていた。LIVEに一人でも多くの人が見に来て欲しい、それを願う自分達の強い思いを胸に、いわば裏の活動でもあった。

しかしここに来て、2003年の末、Turboより脱退の意思が表明される。その突然のコトに、メンバーも今飛び出すよりはSOLO活動なり、メンバーが固まってからにしたらと、RocketQueenとの共存を彼に望むが、本人は「やるなら1つに集中したい」と強い決心があった。その場は彼も強く出ずにBANDはブッキングされたLIVEをこなしていく。

2004年になり、1.24北浦和Ayers,2.28秋葉原PAGOTAと演奏の出来としてはレヴェルの高い質のあるものであった。
特にPAGOTAのLIVEはこのメンバーになっての最高の出来でもあっただろう。自分としてはこの先に続く音の行方がもっと見てみたかった。LIVE終了後にTurboも「いい出来のLIVEだったし、納得もしてる」と表情も良かった。
しかしその後に彼の仕事面での多忙化、なし崩し的なまま自分の新BAND結成、RocketQueenはLIVE活動の続行からとりあえず2004年の3月、4月、5月とバタバタとスケジュールは決定されていた。彼の意思と反するように。


結果は「破綻」。

Turboも焦燥感が募り、その閉鎖感から衝突し、特にDiechanとの亀裂から離脱、音信不通へ。BANDとしても活動を緊急停止せざるをえなかった。それがまた間の悪いコトに3月のLIVE直前であり、多方面に影響が及んでしまう。結果「逃げた」と彼には非常に重い罪が科せられる。




その後、僕は自分から連絡を取り、彼のその精神的苦痛、事情も認めていたこともあったのにこの事態を収められなかった自責も告げる。確かに結果「逃げた」とされているが、Turboの心情を汲むなら誰が悪いとも責められないハズだし、連帯で責任の所在を探るなら「この時期のBANDそのものが悪い」と自分は個人的意見として言わせて頂く。

BANDは人の信頼関係で成り立っている、自分達はそう考えていたし、それしか在りえないと思っていた。
だからこそ、こうした「別れ」は非常に痛いものだし傷つくのだ。

リーダー・Diechanを側で見ていてこの時、ガクリと肩を落としていた彼を非常に痛々しく思えたことを印象深く記憶している。
しかし悔しさもあり、「絶対に負けない」と強さもまだ見られていた。
自分もここで終わりにしなかったのも「まだやり残している」という意識があったからである。


正念場、まさにその時だった。

Friday, July 14, 2006

RocketQueen HISTORY(TRUE) 2002 / "So Sweet,So Lonely"


Tomokiの脱退が決定され、彼に脱退の申し入れをこちらより告げる。
結成以来の「親友」Diechanにとっても心苦しい決断でもあったが、自分達が進むべき音楽性をあくまで貫き通そうとするために決断をしなければならなかった。自分はあくまで彼の将来性を買っていたし、このままこのRocketQueenというBANDで磨り減っていく才能が見ていても勿体無いとも感じていた。Tomokiの音楽センスから、もっと広く音楽性を展開させることで、自由な豊かな表現が可能であると信じていたためである。勘違いして欲しくないのが、彼とのBANDの成長を切り捨てたのでは断じてない。
結成以来、広がり続けるTomokiのイマジネーションをもっと「然るべき表現の場所」へと解き放つべきだと、この時自分もDiechanも同じ意見であったし、結果Tomokiもそれを望んだのだ。
そして、現時点でのブッキング済みの残りのスケジュールはTomoki自身が「最後までオレに弾かせて欲しい」と申し入れがあり、自分達もそこでの「決着」には文句も無かった。

2001年の暮れよりから水面下で、自分とDaichanが率先して次期メンバーとなるGuitaristを探し求めていった。その中でTakumiがまず決定し、彼との話し合いから再びツインギターの方向性に向かっていく。
彼自身もGuitarのリフで押すゴリゴリのMETAL BAND志向だったことや、自分達もよりへヴィな方向へとBANDが進むことは意見が合致していた。
2002年初頭に再び人選からRyoが選ばれて加入が決定する。
彼も大学BAND以来の初となるオリジナルBANDへの参加に意欲満々であったし、何よりも彼の人間性が非常に丁寧で礼儀正しい性格でもあった。またDiechan,Tsuyoshiとも同年代。うち解けるのも早かった。
ここからが新ラインナップの始まりでもある。

そしてまだ今もなおTomokiが在籍する中で、あまりに脱退後の繋ぎが順調に進んでいたことに非常に嬉しくもあったが、その反面で少し申し訳ない気持ちもあった。
リハもTomokiと合わせた後にTakumi,Ryoと連続して行いながら進めていった。
Takumiも新曲のマテリアルを依頼していたが、形としてはまだ上がってきておらずむしろ現存のマテリアルをその手に馴染ませるのに一杯であった時期であろう。
Ryoもまた作曲に関してはまだ自分の納得のいく自信がなく、いずれ自信を持てたら創作したいと考えていたようだ。
その中でKeyboardも入れようか?とDiechanが言い出し人選を進めた。
彼の中にGun'n'Rosesのラインナップがあったのは言うまでもない。

しかしKeyboardといっても当時まだ非常に人選が難しく、何故かピアニストが来たりとなかなか希少な数の中での人選に一度は暗礁に乗り上げ、断念せざるおえなかった。実際自分達もどんな人材に声をかけたらいいのかもハッキリ分かってもいなかったのである。


2002年最初のLIVEは1.06の秋葉原GOODMAN。TsuyoshiのBASS教室のツテでイベント出演が決定。
この会場は都内でも屈指のいい音環境で演奏が出来るというふれこみであった。実際高級な機材を使用できたり、会場側のスタッフの対応も良い。非常にやりやすく感じられた。
終了後にイベンターがBANDにコメントをくれたり、アドヴァイスをくれたが、駆け出し途中の自分達には大して響いていなかった気もする。ただこの時点で自分達の弱点も見えたし、理解は出来た。
「こんなトコロもあるんだ」と知ることができただけでも経験という財産を得られた。

1.19池袋Admは久々の出演。以前から手馴れたスペースでもあったが、「成長」という経験値が自分達をこんなにものびのびとしたLIVEに一つのピークをこの時点で迎えている。
観客の反応以前に自分達が「心地よく」音を奏でられる努力を、RocketQueenはここまで続けていたのだ。
それが自分達の「自信」や「誇り」にもなっていったと考えられる。


「伝説」とも語られる2.02吉祥寺CRESCENDO。2006年の解散までホームグラウンドと位置づけられたハコである。この日は記念すべきRocketQueenのCRESCENDOデヴュー。ハードな音を求めていた自分達にとってこの非常に求めていた音環境であったといえる。METAL BANDイベントが数多く行なわれ、そのテのBANDも多く出入りする。ホームとなる場所を欲していた自分達にやっとめぐり合えたともいうべき場所だったといえた。そしてここでの1BANDの持ち時間(演奏時間)は何と45分である。この当時自分達の全てのマテリアルを総合してもおそらくピッタリの時間であることから、

D氏:「じゃあ、時間あるんだし全曲やっちゃおうぜ。」

かくしてリーダー直々の命により怒涛のフルセットLIVEが実現される。
至上初?SET LISTを公開しよう。

2002.2.02 吉祥寺CRESCENDO

1.HIGHWAY GANG
2.NO EMOTION
3.誰がために鐘は鳴る
4.BLACK HUNTER
5.DEADMAN SHOW
6.DREAMS
7.DEVILCHILD
8.君をのせて
9.FUNNY ZOMBIE
10.MESSIAH

ノッケからSPEED IS JUSTICEでガスガスと飛ばすが、ハッキリ言ってどの位置にも休める曲など存在しない。そう、この時代のRocketQueenの恐ろしいトコロは速い曲しかないのである(笑)
今でこそ笑って語れるが、本当に「これが...若さか...」等とシャアのセリフが飛び出す始末でもあろう。
実際この記事を書くにあたり聴き返してみたが、凄まじいテンションが内包されていてこれはイッちゃてるなって本当に感じた。この突き抜け感もまたこの時代の特徴なのだと思う。
このLIVEを見た某氏が「暴走METAL」という命名を与えたとされ、自分達はその名に恥じず、暴走の限りを尽くしていくのである。

ちなみにこの日の共演に仲むつまじいARCADIA(Vocal:TAKERU LAST LIVE)と、運命の初顔合わせGUILTYS LOW(Vocal:KOTAKE)という本当に凄まじい面子。以後、これらのメンバーとも交流が続く。


TomokiのLastlive。
2002.02.04、渋谷gig-anticでまさにこのメンバーでの最高のパフォーマンスが出来たと思う。
自分は先日のCRESCENDOから日も間もないことから声は枯れ切っていたが、そんなことはこの日のLIVEには何の関係もなかった。Tomokiの最後の勇姿を見るため多くの来客もあり、非常に感動的でもあった。
Tomokiが自分からこの日「リーダーです」と仕切り、自身の脱退のコメントをし、華やかさよりも潔さが非常に溢れていたと自分は思う。機材トラブルも各所当然のようにあったが、最後のMESSIAHまでその高いテンションは変わらなかった。

「このメンバーで最後のRocketQueenです」

それはBANDの一時代を築いたTomokiへの賛辞と、今後の新たな新章への布石でもあったといえる。

BANDとTomokiのそれぞれの道。それぞれに心からお互いにありがとうと言えて別れていった。
彼がLIVE終了後、楽屋にて「笑顔」で"ありがとう"と言ってくれたのは非常に嬉しかった。
BANDがもたらす「出会い」というその美しさにこの時非常に感無量だった記憶がある。
これ以後も実際、そして今でも仲良く親交があるのもこの時期を共にBANDで過ごした来たためである。
そして彼が音楽を「表現」と生業とする職人的な道へと歩み出す切っ掛けにもなっていったのだ。
自分は音楽が導いてくれたこの「友情」に今でも深く感謝をしている。



さて、Takumiはというと、METALというジャンルに非常に「こだわり」があり、自分はそのためにだけGuitarを弾いていると言わんばかりの人物であったと記憶している。それまでの彼の経歴から引き出しもかなり多く、BANDとしてのアンサンブルの強化に一役かっていた。人あたりが少し苦手な印象も最後まで拭い切れなかったが。小難しいとまでは言わないが少々付き合いに難があったのも事実だった。

またRyoはDiechan,Tsuyoshiらと同年代であり、非常に好青年な人物であり短期間で深く友情を結んでいた。確かに初々しさもあるが、やる気はあり非常に献身的、向上心も高く、若い割にもしっかりとした裏付けるテクニックがあった。

3.03に秋葉原GOODMANで新編成最初のLIVEを敢行。
新曲はまだ無く、メンバーを入れ替えただけの結果になったが、細かい部分では彼らが弾くリフの精度の差、ガッチリとした刻みによる音の一体感は確かに増していた。
自分はパフォーマンスの一環として黒い翼をつけて登場。寒い失笑を買う(笑)
確実にへヴィな音質に生まれ変わったBANDの姿を披露出来たいい内容であったとも思う。
そして新メンバーによる新たなマテリアルも期待出来る「次」に繋げるLIVEだった。
新生RocketQueenとして第一歩のLIVEという位置付けで自分は望んでいたのが、Guitarの一角TakumiはLIVEの終了後はっきりこう言ったのを今でも記憶している。

「こんなに達成感のないLIVEは初めてだ...」

彼にとってどんなLIVEを目指していたかは今は知る由もないが、彼も自分の新曲を形にも出来ずに、Tomoki
の引き継ぐ形でBANDに参加したにも関わらずその作業で手一杯であり、また他に自分のBANDを持っていたらしいがその活動も駆け出し途中。自分に言わせれば何をもってこの時期に達成感などと言うのか、正直疑問であるといえる。

そのまま、なし崩し的に彼はRocketQueenの活動を辞退という形で脱退へ。
その彼の脱退の態度に腹を立てたDiechanが若く、直情的な言動や行動をし、「ある事件」に発展。この後非常に大きな事態へと急変する。(永遠に語れない内容)
それもなんとかメンバー協力の下、収めてRyoと共にまたBANDを再始動しようとしていたその矢先にまた事態は急変する。

Ryoの「家庭の事情」でBANDへの参加が困難になってしまったのである。
急遽の相次ぐ脱退劇に活動停止は仕方のない判断であった。


今を以ってこの時期とは何だったのか、検証するならば自分はこう考えている。
Takumiは自分のMETAL BANDとしての活動を強く望んでいた。RocketQueenは既に活動を開始しているBANDである。Diechanを筆頭に進めている事にも折り合いも悪く、人間性の相性にズレがあった。
音楽という1つの共有の場で1つの目標に向かい足並みを揃えていくのは可能であるが、その反面、個人が別の目的意識があり、BANDとそぐわない時には我慢しなければならない。そのような事態にお互いを結ぶのは人間関係である。それすらも危ういTakumiとでは関係の持続は不可能であった。
その反面、RyoはBANDに対しても人間関係的にも問題はなかった。
この差を見てもBANDとは、やはり集まった人間の心の信頼感であるといえる。
でなければ、目的のために報酬を出して参加してもらい音楽を奏でる手段の他はないだろう。



そのような不安定な時期であったが、書きかけであったDiechanの新曲QUEENBEE ROCKETの完成させていく作業だけは進めていた。

そして、5月になってDiechanが募集より人選してきたMAKIがKeyboardへ参加することが決定し、RocketQueenはここから大きな転機を迎えることとなる。

Monday, July 10, 2006

RocketQueen HISTORY(TRUE) 2001 / "Beauty's On The Street"













年が明け、リハで新曲を練りながらLIVE活動を開始、SETにも"DEADMAN SHOW" "誰がために鐘は鳴る" "DREAMS"も加わり、益々バラエティーに富んだ音楽性を展開を見せていく。
他にも、Diechanは"誰がために鐘は鳴る"の原曲と共に"WAR ENSEMBLE~駆り立てるのはただ野心と欲望、そして横たわるのは犬と豚~"という、組曲的楽曲もアウトテイクとして提供している。重くへヴィな前半から突っ走った流れの後半で組み合わさったような曲だったと自分は記憶しているが。Tomokiもこの時期、自分から「聖飢魔Ⅱ」をかなり聴かせて洗脳しており"ファラオのように"のような16の少しダンサンブルな横ノリの曲や、壮大なROCKバラード調の"ARCADIA"を参考にした大きなノリのバラード曲もあったと記憶している。また、3拍子の曲を思いついたとのコトで、"BLACK MIRROR"という曲も提供していた。そして"MESSIAH"作曲者であるJinが「良かったら使ってくれ」と、本人が昔書いてあたためていた曲"LUCFER'S RISING"を提供してくれた。
BANDとして実際演奏したのは先の3曲だが、非常にクリエイティヴに楽曲制作していた時期でもあったのである。

そういえば年始のこの時期、Diechan,Tomoki,Mune,Tsuyoshi共に成人式を迎える。
ホント若かったんだよな、この子達(笑)

池袋Adamにマンスリーで出演し、自分のSOLOでも活動してきた北浦和Ayersにも出演している。
そして6月には初の音源となる「MESSIAH」を南浦和にあるカラレックというスタジオで録音・制作。
ちなみにここは自分の縁の深いスタッフがおり、気兼ねのないリラックスした録音であった。
自分以外の彼らはこうしたレコーディング形式は初であり、手始めとも呼ぶべき最初の録音でもあった。

実際にその後の7.15の池袋Admにおいて、たった1回しか会場販売はしていないため、この音源をカセットテープで持ってる人がいたなら、それは非常にレア中のレアである。
幻のデモテープと呼ばれるその恐るべき内容は録音されたMESSIAHはA面に入っているのだが、B面はDiechanの趣味と悪戯(笑)により関係のない音源が収録されているのである。何を入れていたか迄は思い出せないが、当時から遊び心満載での活動であったといえる。


だが、このレコーディングをきっかけにGuitarのMuneが脱退。
その原因は、それぞれが自らのテクニックを磨き上げ、BANDを成長させていく中で、Muneの音楽に対する自意識の問題が表面化してしまった。
自分の個人的見解と推測でしかないが、誘われてこのBANDへ参加したことも「やらされている感」が見えていた。
決してアクティビティまでは求めてはいないが、BANDである以上は意識をもって参加することは義務であると思う。そういった気持ちの揺らぎはBANDそのもののモチベーションをも下げてしまう。
難しい判断ではあったが、彼らも(Diechan,Tomoki)友人との情を捨ててBANDを高みへと進めようとする決意も見られ判断したとされる。

またシビアなことだが、自分もこのBANDの結成当時よりリハーサルにおいて喉を潰してしまい、抑制の効かない自身の声に嫌気がさし脱退しようとも考えていたこともある。
だが、奇跡的にLIVEごとに回復していき踏み留まったことで今があるのだが。
どちらにしても、あの時はあの時なりの苦悩と挫折もそれぞれにあったのだ。
音楽の質を高めていくために犠牲を払うのも事実であったといえるだろう。
BANDとは決して1人の所有物ではない。誰1人が欠けても本当はダメなのだ。

そして、新たにkazuya(Vo)/Tomoki(G)/Tsuyoshi(B)/Diechan(Dr)の4人でRocketQueenを再生させた。

この時代を知る人こそ今は少ないとは思うが、この時期こそRocketQueenは正真正銘ROCK BANDであり、LIVE BANDであったと、自分のみならずメンバー全員が公言している。

Maxi-single:「FIRST DEMO 2001」の完成。
その内容は結成当初から演奏され続けた手馴れたマテリアルの"誰がために鐘は鳴る" "HIGHWAY GANG" "BLACK HUNTER"の3曲である。各自がそれぞれのパートに責任を担い録音された音源は当時のベストテイクであったと思う。BANDへの意識の向上、それが前音源の録音とはまるで違うように思えた。

以下はデザインについてのやりとり。

D氏:「そういえばこれのジャケってどうするよ?」
K氏:「う~ん何でもいいけどね...」
D氏:「何かさ、野獣がグゥァァァァァァって感じの強そうなヤツ(笑)がいいね。」
K氏:「(大笑)んじゃ、動物図鑑とかから引っ張ってくっか。メンバー写真とかもいれる?」
D氏:「写真ねェ...そこのゲーセンでプリクラ撮って貼っつければいいんじゃね?」

瞬殺で決めたこの工程で出来上がったのが実際のジャケデザインである。
「勢い」だけで突っ走る。俺達の人生、スピードだけ。そんなノリだった。
また、そんな音源を引っさげてのシリーズLIVEが最高の熱を孕んでいた。
約3ヶ月の中で10数本という、まぁ他のBANDなら全然少ない本数だがウチらにしたらとんでもない本数だった。そしてこの時期に自分は、8年程正社員で働いた会社から会社縮小のため事実上「リストラ」されフリーターに。他のメンバーもまだ若く皆フリーターだし資金面でとにかく干上がってた。
余談だが、この時期にバイトするため自分は別に拘ってもいなかったが、長い髪を切り落とした。別に大した意味もなく伸ばしていたのだが、いい加減飽きたってのも一つかな。自分的に心機一転のつもりでもあったし、かといって深い意味は全くない。


この時期の活動期間を経てメンバー同士がすごく繋がっっていったし、何よりも心から楽しかった。
BANDってやはり人との繋がりが強い程に音楽にも強く感情を反映できる気がする。
「BAND」ってやはりいいなって。単純に改めてそう感じていた。

2001年暮れよりの怒涛の活動記録。その話を紐解こう。
To氏:「音源せっかく作ったんだし、年末にかけてLIVEちょっとまとまった本数やろうよ。」
D氏:「そうだな~ガンガン入れちゃおうぜ」
K氏:「んじゃ片っ端からライブハウスに音源送りつけてブッキングしてもらおうか。」

かくして、ジャンジャンとスケジュールを入れていったのである。それは11.14北浦和Ayersより爆裂スタートするが、LIVE本編は地元友人連中から当日の他のBANDの客まで巻き込みながら会場をこれでもかと揺らしてきた。平日のブッキングでのLIVEは今まで無く、逆に自分達は新鮮に感じながらのLIVEでもあった。音楽に生きてるって感覚がまた誇らしくもあり、4人が皆ROCKERとしてトガッっていた時期でもあろう。

その公演から数日後の11.19に六本木Y2Kという当時それなりにデカめの名の知れたハコに出演。メンバーもその知名度から期待に胸を膨らませて望むが、来客は椅子にキチンと着席。「ふ~ん」とでも言いたそうなマッタリとした寒々しい空気の中、唾を吐き捨てるが如く力の限り飛ばした。会場の設備の割に大した技術も無かったな、このハコは。

12.07神楽坂DEMENSIONはイベント絡みの出演であったが、遅刻常習犯:Tomokiが入りの集合時間よりも早く来るという「事件」が起きる。しかし何と逆にTsuyoshiが大寝坊をかます(笑)後で散々皆からいたぶられたのは言うまでもない。「死ねッ!」Diechanが凄みをきかせてたのをよく憶えている。スティックをよくブン投げてたな。伝統あるハコなんだが、ホント汚い・暗い・狭いの3拍子揃ったようなトコ。LIVE自体は来客が自分の目当てのBANDに転換するとあっという間にステージ前から遠ざかっていくという寒々しいLIVEだったが、俺達にはそんなもの関係なく突っ走るのみであった。終了後、Diechanにイベンターがあの伝説の名言「キミの衣装は筋肉ゥだねェ!!」と語る。容赦のないパフォーマンスは被写体としても凄まじかった。メンバー誰一人としてまともにピントが合わない写真という写真。笑えたが、全員心霊写真並みの写真映りである。

12.23浦和NARCISSではクリスマス直前の町並みを尻目に週末のブッキングで、なんか社会人のヌルイBANDとかの共演だった気がする。逆にそのBANDの来客に「キミたちィ、ROCKだね~ヒック(酔)」等と以外にウケてたのがまたよく分からないのだが、それなりに盛り上がって意気揚々と事務所に清算しに行くと、ブッキングマネージャーに
「ウチはヴィジュゥアァァルの店だしねェ~キミらなんか出ても客付くのはムゥズかすィ~じゃなァい?へへン(鼻で笑う)」みたいな。もちろん一同唖然。自分は内心、この黒く塗られた建物自体をホントに炭にでもしてやろうか?なんて思ってたりもした。
一同:「こんなアフォなハコに誰がワザワザ出てやるかよ。ケッ」
本番でDiechanが力の限りブッ叩いてシンバルが裂けたり、挙句にはこの当時、彼の愛用していた「鉄骨(鉄芯)」の入ったスティックがこの世のものではない形にへし折れるという伝説的ウルテクを見せたことで少しばかり気も晴れ、サヨウナラ。

2001年の最後を飾るのは12.30原宿LOSANGELSでの「1周年記念」である。この日もイベント絡みの出演、トップでもあったが、ノッケから「RocketQueen,1周年~Yeahhhhhhhhh!」と全員で叫び、ハイテンションで少ない持ち時間を山ほどの曲数で(笑)飛ばして飛ばしまくって駆け抜けた。
客?「ノリ遅れたヤツは死ねッ!」これも伝説の名言である。
確か来客にDiechanの関西時代の友人が駆けつけてくれていたのをよく憶えている。


こんなLIVEばかりのドサクサの最中、リハで新曲製作もタイトなスケジュールの中で行われていた。
DiechanがHIGHWAY GANGの続編のようなROCK'N'ROLLな曲、"CHICKEN RACE"を作り上げ、
Tsuyoshiのスラッピングを取り入れたイントロを生かしてジャムって完成させた"SHALL WE DANCE"
が出来た。そしてTomokiが"VINUS CITY" "HAPPY SONG"を生み出す。
先の2曲はまだROCK色はあったが、Tomokiの作曲に変化・転機が訪れてくる。
彼のルーツからCrassicやJazz、Acosticなどの面を色濃く出した楽曲が生まれ、HARDなROCK SOUNDから離れてきてしまった。
実際にLIVEではこの中から"CHICKEN RACE" "VENUS CITY"がSETに加えられ日の目を見たのだが、
明らかにBAND内で違和感が芽生えてしまい、ROCK BANDとしての方向性を見失うという所まできてしまっていたのだ。

楽曲が悪いのではない。
むしろ曲はいい曲ではあるが、ROCK BAND「RocketQueen」としてどうなのか、
それが「全て」であり、それが方向性を獲得していく手段なのだ。

そのため、それらの原因などからGuitar:Tomokiの脱退へと繋がっていくこととなっていくこととなる。

Friday, July 07, 2006

RocketQueen HISTORY (TRUE) 2000 / "Reborn From The Darkness"


RocketQueen結成は2000年の10月。
自分はまだ26歳だった。

前述の"BERZEBUTH"との関わりから、Drums:DiechanとGuitar:Tomokiに再び出会う。
最初に彼らに会った時の印象としておぼろげな記憶ではあるが、

「こんな若いのに何でバンドなんだろう?」
注)オレの印象だけかもしれんがBANDなんてやってんのは
それはそれはむさくるしい連中ばかりでさ...なんていうのは自分の常識なのかな。

その2人が中心になってメンバーを再編成。Bass:TsuyoshiとGuitar:Muneを誘い、自分も再び参加し
晴れてBAND "RocketQueen"になった。

その時に強く印象に残っているのがみんな「若い」なって。しかも「悪ガキ」。
でも悪ガキにも2パターンあって、"良さげな悪ガキ" と "タチの悪いクソガキ" 
っているんだが(勝手な自己判断) 明らかに音楽に対して純粋な彼らは前者の方だったと思う。

彼らと随分年の差はあったけど自分はあまり意識はしなかったかな。
自然だったと思うけど、あの子達が気を使って話す感じは自分は微塵も感じなかったけど(笑)


SOLO活動はたった一人だけで全てやってたこともあり、メンバーが集まって
それぞれの音の役割を担うっていう作業自体がすごく楽しかった。
「あぁ、これだ。BANDってそうなんだ」って。
SOLOの音楽性も一人でやってるクセに音はBANDだったし、元々自分の中ではBAND SOUNDが自分の理想の音楽形態だった事は逆に大きい枷でもあった。この90年代半ばは自宅録音の機材がやっと普及しだしてきて、そういった中での音楽制作環境は自分の聴いていた音楽も重なって凄く刺激でもあった。でもその反面でBAND SOUNDなのに孤独に音楽を作っていた。自分だけの音楽という部分に徹底した時期でもあった。

生の質感と音に深みがあって、分厚い。打ち込みでやってたそれまでから全くの別物。
体の芯に響く音っていうのかな?
そんな印象が強かった。

メンバーが集まって当たり前にLIVEへと活動は進んでいく。
当然曲作りだって話に転じて進んでいった。

最初からあった楽曲は元々Diechanの"BLACK HUNTER"、 Tomokiの"HIGHWAY GANG"に、新曲としてDiechanが"NO EMOTION"、 Tomokiが"FUNNY ZOMBIE"を持ってきた。
で、自分が過去にやってたBAND "Roed-Zak"の"MESSIAH"(オリジナルタイトル:METAL MESSIAH)も加え
曲が出揃う前から何故か決まっていたLIVE(2000.12.30)に向けてさらに曲作りに。
結局その中でTomokiが"Devilchild" "Love,again"を、Diechanがカヴァーアレンジをした"君をのせて"が出来て、

確か1st LIVE SET LISTはこのような形だったと記憶している。

RocketQueen 1st live SET LIST.2000.12.30

1.HIGHWAY GANG
2.BLACK HUNTER
3.Love,again
4.NO EMOTION
5.FUNNY ZOMBIE
6.Devilchild
7.君をのせて
8.MESSIAH

会場はなんかSTAGEの段差もないようなホント公開リハみたいな所で
自分はLIVE前の連日のリハで喉つぶして、風邪もひいてしまい体調は最悪だった。
2000年08月以降、自分はSOLO活動のスケジュールを入れてしまっていたため、この12月に自分は2本ものライヴをやってる。実際この後2002年までSOLOの活動はRocketQueenと平行して続けていった。
今思えば自分でも凄いスケジュールだったと思うが、音楽漬けの日々に精神的には安定してた。
ただただ、一生懸命だった。死力を尽くしたという思い出しかない。
まだ歌い方も全然出来てなかったし、まるで。ただ張り上げて叫んでただけ。
そりゃ喉もつぶすわって感じだった。


LIVE の後にDiechanの地元、府中に移動して打ち上げ。
朝まで飲んで盛り上がって話した。ホント呆れるぐらいに楽しかった。
始発で気分不快になりながらもTsuyoshiと二人で帰ったのをよく憶えてる。


出会いの年となった2000年はこうして終わる。     

RocketQueen HISTORY (TRUE) / "The Birth Of Stars"

自己紹介からしていきます。

僕は15歳ぐらいからBANDを始めましたが、
確か1989年だったかなって記憶してます。

友人から聖飢魔Ⅱを聴かされ衝撃?って訳ではなかったけど、それまで聴いていたBest Hit USAやMTV等の洋楽POP SONGとは一線を超えたものを「ROCK」というジャンルから感じ、ROCK BANDへと傾倒していく。
まぁ、手始めはホント「ジャパメタ」とか(笑)洋楽でもBON JOVIやらMETTALICAが出てきた80年代の末、日本でもインディーズが手に入りやすくなっていった状況下にイカ天やら、あのXとかの存在もかなりでかかった。山ほど出てきたBANDの中でも自分はD'ELANGERが特に好きで今でもメンバーを追いかけてるくらい(笑)その周りにいたBANDももちろん好きだったしね。ルーツ探って遡って色んなNEW WAVE PANKSなんかも聴いたり。みんなこの時から化粧して衣装きてステージ出てくのは日常で、当たり前だった。だから今でもTシャツ、ジーパンで出て行かないのはその理由からだと考えている。ステージに対する憧れというか、拘りというのは自分には特に格別なんだと思う。現実と夢の差のギリギリの差を行き来する自分という人間の別の人格がやはりここにいると感じている。

最初にGuitarを始めました。
それまで音楽のオの字も知らないガキが訳もわからずになんか楽しい~って。
カッコつけもたぶん今以上にあったかな。その時の憧れはエース清水なんだけどね(笑)

でも、やってく中で「プロ」って意識が芽を出していくんだけど、
やっぱり自分でも厳しいっては思ったな。こんなんでメシ食えのかよって。

今でこそ音楽って自分の表現の一つとしてこうして語ってなんかいるけど、
自分にとっての音楽ってモノに(心の中の領域ね)信念持てるまでは実力も、自信も、何1つ
手探りだったよ。誰にやれって言われてやるもんなんかじゃないしね。みんな周りも音楽に表現意識なんて持ってやってなかったし、自分はそういう意識が芽生えた後は周りのメンバーのやる気のなさに怒ってばっかいた気がする。

自分のバックボーンに「芸術志向」だったのは唯一の強みだった。
表現という自由な発想から、ただの音楽なんかやるもんかって。
入り口が聖飢魔Ⅱだったこともあり音楽とエンターテイメントの繋がりは自然だったし、絶対にヴィジュアル(V系じゃなくてね)は必要だと感じていた。
普通なんて形容が当てはまる訳ねぇだろうって。
そんな観点、思想を捨てずに音楽活動は高校生からずっと続けてきている。
自分の中では明確に活動って呼べるのはもっと後からなんだけど。



友人と始めた1st BAND"Roed-Zak"はなし崩し的に消滅。
VocalがいなかったからGuitar持って歌いだしたのが始まり。
あたり見回してもオレ以上にハイな歌い方できるヤツなんていなかったし。

当時なんてTVに映る素人の様なプロ?他人の歌を聴いても何も伝わるものが感じられなかった。

ただ自分は漠然と感じてたんだ。
ROCKやってんのに「熱くない」のは嫌だなって。
確かにクール(突き放した)に徹した音楽も聴くけど、内包するSPIRITSが感じられるからいいんだし。

とにかくLIVEがやりたいって、ただただ思ってた。
1999年に活動を開始したSOLO PROJECT"Satanism Hel Awake"はそういった自分の音楽への在り方全てを提示することだった。

その中でまた「プロ」って意識が出てくるけど、
自分のやりたいのはLIVEだし、そのためにお客さんがお金払って来てくれてんだし。
何よりも強く思っていたのは、「いい音楽を聴かせなきゃ、いいものを見せなきゃ」って
そういった意識を持ってやるのにメジャーでとかデビューとかって関係ないよなって。

いい音楽を作りたい。それだけが自分の信念となった。


そうして紆余曲折を経て、実質1年以上に渡りSOLO活動を続けながら音楽性がBAND志向へと変化していき、その中で当然いいGuitaristと一緒にやりたいという感情が自分の中に生まれたことから雑誌を見て、都内へとメンバー募集記事を頼りに出て行く。

2000年08月に、そこでめぐり会ったのがDiechan,Tomokiであったと言う訳である。

自分が目当てで探したGuitarのRITSUKIは既にDiechan達と"BERZEBUTH"を始めており、そこにいたサポートメンバーであったVocalのHINOTOがちょうど離脱したばかりで自分に「加入」という形で話が舞い込んだ。
自分としてはSOLOのバックメンバーの募集で彼に会いに行ったのだが、ここまでの募集の人材を見てる中で、自分の理想に当てはまる人材を集めるのにはかなりの時間がかかることも考慮し、BERZEBUTHに参加しながら、SOLO活動も進めていこうと思っていた。

この後、初LIVEも行なうことなくBERZEBUTHは消滅するのだが、リハーサルスタジオにて音を出した瞬間に、RITSUKIというGuitaristの出す音から彼の音楽に対する感情の希薄さまでが読み取れてしまった。彼も割と言葉では説得じみた言い方をするのだが、自分には「ファッションで音出してるな、コイツ」って思ったし、実際何の感動も見出せなかった。
彼の連れのBassのKATOも自分には将来性のあるプレイヤーには見れなかった。

その点、Tomokiは若くも非常に向上心にあふれており、太い誤魔化しのない音と成長味あふれるいい発想を持ったGuitaristというのが強く印象に残っている。そしてDiechanの荒くも迫力に満ちたドラミングは十分なロックビートを叩き出していた。

前者の2人に比べてもこの2人は「BANDなんてただの遊び」的な最初からなめきった態度が(笑)自分には逆に面白かった。それもROCKだなって。雑誌の募集記事を見ても「何がプロ志向だ?」的な部分は自分も思っていたし、鼻で笑っていた。
自分も自己表現として音楽活動はしているが、音楽など所詮「個人的」なものであることに重々気づいているためである。実際に幾ら言葉で大きな夢を語ろうが、スタジオで音を出せばその人物の音楽との関係が理解できてしまう。
RITSUKIが再三「デヴュー」と口にしていたが、自分の中ではこれで?みたいな疑問ばっかりが浮かんでた。

曲もRITSUKIの"NIGHT OF SOUL","GO ANYWAY"とDiechan,Tomokiの"BLACK HUNTER"に、スタジオでTomokiが色んなBANDの曲から拝借したと思われる(笑)リフから"HIGHWAY GANG"が生まれる。
自分も曲出しの中で、LIVEまで時間もなかったことから、過去の自分のマテリアルで良ければ使ってとDEMOを渡す。その中に"MESSIAH"も含まれていたという訳である。
BassのKATOも作曲。"SCREAM2"というハードなナンバーのリフだけを出し、構成を練る段階での作業途中で終了。以降、このBANDでリハに入ることはなかった。

その理由として、TomokiがLIVEの1週間前から連絡が不通に。
その後日談でいろいろあったと聞いているが(笑)ここでそのまま離散し、自分はSOLO活動を継続する準備を整えていく。

2000年8月の僅か1ヶ月程度の活動期間。少しだけ暑い夏だったと記憶している。















予め断りを入れておくが、ここでの文章に書かれている内容・人物等は自分がこの5年余りに及んで活動を続けたBAND "RocketQueen"にまつわるドキュメンタリーである。我が「RocketQueen HISTORY LAST WORKS」とも呼ぶべき、「文章で語るHISTORY」の完結編である。
今まで制作したどのRocketQueen HISTORYよりも真実に近い形で自分は補完したいと考えた。

そして何よりも断っておきたいのが、登場する人物像は自分が見た「視点」であるというコトを承知した上でお読み頂きたい。自分という偏った見解で極力個人を中傷する表現は控えているが、真実を語る部分において表現が受容される側で好ましくないとされるものも存在するかもしれない。それに対しては断固として自分には故意にその意思がないことをここに誓う。
実際にここに登場された人物や知人がこれを閲覧し、書かれた文章により不快感、文句や否定すべき表現が本文にあるのなら、直接私の別サイトにあたる
STRANGE DAYS http://devilevildies.jugem.jp/
の方へご連絡頂きたい。
私本人が誠心誠意をもってその回答を行なうこと、記された内容について自分は一歩たりとも退くつもりはないこと。それを承知で来て頂きたい。

実際にあったこと、起こったこと、自分がその当時心に何を感じ、どう考えていたか。
自分の表現活動の「軌跡」を残す意味で自分の個人的心の歴史を紐解き、こうして執筆してきたつもりだ。
そして書かれている自分の感情、意思というものに嘘・偽りは一切ないとここに誓う。

Thursday, July 06, 2006

STARTING OVER

まずは、はじめまして。
kazuyaです。

PCのことなんぞ何も知らんが、
こういったスペースが今の自分には必要なんじゃないかと。
突然、思ってしまったんで。

アタくしの性格上「思い立ったら実行!」と
まさに有言実行に頑張ってきました。
実際、上記の行き当たりばったりな行動と発言により
苦汁を飲み続けてきたのは言うまでもなく、
人の3倍は早回しに時を駆けている気もしなくはないですが。

PROFILE って訳じゃないっスけど、
以前、RocketQueenというバンド(2000-2006)をやってまして、
そこでVocalistでして。

活動中なんかは忙しさにカマけてPCの環境が得られなくて、
今になってやり始めてるという(笑)

まぁ、PCに関しては徐々に独学と僕の身の周りの親しい方々から
教えを請いながらも頑張っていくんでね、
皆こそ頑張って死力を尽くすようにネ。


ちなみにこのスペースの使い方ですが、
ホントに好き勝手にやります。
だがしかし、オレ様にそんな知識なんてネェし
扱いもロクにわかちゃいませんのでどうなることやら。

表立ってはDairyやらReportやら、自分の作品の紹介やらしていきますが
あ、詩集も出してましたね。アタくし

5年間に及ぶ活動の歴史に自身の音楽活動の一環から
作詞があって、それに伴い発生したPoet(詩)を含む

RocketQueen 「Lyrics for RocketQueen 2000-2005」

宣伝しといて何ですが、製作部数は全て売り切れっス....

って、ノッケからアフォな事記してますが
こんな感じで思い出しながら過去の事も少しは
回想しながら書いていきたいと思いますね。

まとまらなくてスンません。
どうか、お付き合いくださいな。